yは、ホテルの夜の単調さをやわらげる役にこそ立て、伸子たちの生活の邪魔にはならないのだった。
 並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》につづいたアストージェンカの、しんとした夜々が、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の活気にみちた夜にかわった。
 そして、或る日の午後、伸子はふと窓の下のガラス屋根に何かを認め、そっとデスクの前を立って窓へよって行った。
 もう日蔭にしか雪ののこっていない早春の、乾いたガラス屋根のところに、三人の青年と二人の娘が出て来ている。二人の娘は並んで前列に、二人の青年は、そのうしろに、几帳面に並んでポーズしている。こっちに――伸子の見おろしている窓の側に横顔を見せて、金髪の若ものが、写真機を両手の間にもって、一心にファインダーをのぞいているところだった。
 去年まで、写真機をもっているモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の若ものたちを見かけるというようなことはなかった。春から夏の間、並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》の散歩道で菩提樹のかげに写真屋が出て、繁昌していた。伸子は、心から、まあ! と思った。この人たちが写真機をもつようになった!
 若者たちの様子には、何とも云えない新鮮さがあった。ファインダーをのぞいている金髪の青年が、何か云って、右手で合図した。うしろに立っている二人の青年が、一歩ずつよりあって互の距離をちぢめ、その工合を互にたしかめあった上で、また正面をむいて、ポーズしなおした。ファインダーをのぞきこんでいた青年は、しきりに苦心中らしかったが、遂に彼がその顔をあげて何かいうと、娘たちは、ひどく笑い出した。声はきこえないけれども、その嬉々としている様子は手にとるように見えて、こちらの窓の中から見ている伸子に笑いが感染した。それほど彼女たちは愉快に笑うのだった。写真は、まだとるところまでこぎつかない。
 タバコを一服すると、金髪の青年は、こんどこそシャッターをきる決心らしく、上衣をぬいで、伸子がおどろいたことには、まだ雪がのこっている気候だというのに夏の紺と白との荒い横縞のスポーツ・シャツ一枚になった。四人はまた前のとおりの型で、自分たちをこりかたまらした。そして、こっちで見ている伸子の体までこわばって来るような数秒の緊張ののち、シャッターがきられた。
 よほどフィルムが大切にちがいなかった。スナップのためにはたった一度シャッターがきられたきりだった。なおしばらく若者たちは、ガラス屋根の上にのっていることを楽しんで、やがて降りて行った。
 それらは、ほんの些細な光景にちがいないのだ。が、伸子の心に、いちいち触れた。触れて何かの響きを感じさせた。
 伸子の目の下にふとあらわれるこんな光景と、素子が銀製のスプーンを買ったりすることとの間に、伸子は、体が何かにはさまれているような矛盾を感じるのだった。
 パッサージへ引越して来ると間もない日、素子は正餐まえの散歩に伸子を誘い出した。
「めずらしいのね、どこへ行くの?」
「行って見りゃ、わかるよ」
 素子は芸術座の前の通りを真直に行って、商業地区の方へ歩いた。伸子は、国立交換所へ行こうとしているのかと思った。文明社が、もう金を送ってよこさないことはたしかになった。いま国立銀行にあずけてある金がきれれば伸子はウィーンで買った外套や靴を売ることにきめていた。去年まで着た黒い外套とその裏についている猿の毛皮も売っていいと考えていた。そういう物品を正直な市価で交換するために、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人々は国立交換所を利用しているのだった。
 ところが、素子が開けてはいった立派なドアは、国立貴金属販売店だった。案外の思いで、のろのろとついてはいった伸子にかまわず、素子は陳列台の前にかけて、銀製のスープ用大型スプーン、中型スプーン、コーヒー用小型スプーンを店員に出させた。外交団関係の婦人だと思ったのだろう。店員は、丁寧なものごしで、素子の選び出した簡素なデザインのスプーンを三とおり、半ダースずつ、わきへとりのけた。そこまできまってから、素子は伸子に、
「やっぱりイニシァルをつけといた方がいいだろう、ね、ぶこちゃん」
と云った。伸子は、全体としてそんな買物の意味がのみこめなかった。素子の横に腰かけたまま沈んだ眼色で、美しく光っている大小の銀の匙を見つめた。はきはき返事をしない伸子をゆすぶるように、
「ね、ぶこ[#「ぶこ」に傍点]はどう思う? きいているんだよ」
「さあ、つかい道によるんじゃない?」
「いずれわれわれが使うのさ」
 銀のスプーンを? その生活は、どこで、どんな生活だというのだろう……伸子にとってあんまり現実ばなれした感じだった。伸子は、
「あなたのをつけたら」
と云った。

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