ュ治家であり、「プラウダ」の論説員の一人であった。最近の数年間はトロツキストとの連関で問題になっている人物だった。門番の肥った男にたのんで素子がルケアーノフのクワルティーラへ本をつめた木箱を運びあげて貰っていたとき、もう一つ上の階から、タタタタという迅《はや》さで瘠せぎすの、鞣外套の男が降りて来た。その男は、
「重そうだね」
と門番に声をかけてゆっくりわきをすりぬけ、また同じような早さにかえって建物の出入口へ下りて行った。伸子が一目みたその顔の特徴から、それと思われた人の名を頭に浮べたのと素子が、
「ラデックだろう」
と云ったのと同時だった。その後、どうしてだか、素子はラデックの細君はすらりとして美しい、ごく内気そうな婦人だと云ったことがあった。ラデックの最初の妻は、ラリサ・レイスネルだった。レイスネル博士の娘であったラリサは、一九一七年から二一年ごろまで、国内戦の前線で政治指導員として働いた。決して、疲れたと云ったことのないラリサとして人々に記憶された。そのころ彼女が書いた興味ふかい報告、感想集があって、素子は、いつかそれを訳そうとしていた。レイスネルは、ジョン・リードを殺したチブスの年、同じ病で死んだのだった。そういう興味もあって素子は、たまに見かけるラデックやその現在の妻であると思われる婦人に目がとまるのだった。
「ラデックって男は、器量ごのみだね。写真でみるとレイスネルも美しかったが、いまのひとだってモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では珍しいぐらいきれいだ。ちっとも政治的なところのないひとだけれど」
伸子は、どうしてだか、その美しい人というのに出会ったことがなかった。けれども、素子から噂をきき、ラデックの政治的な立場を思いあわせると、同じくらい美しいにしても、いまの細君がレイスネルとは全くちがった性格の婦人であるだろうということは推察がつくのだった。
そのようにして、その内部ではさまざまな種類の生活が営まれているアストージェンカ一番地の建物から伸子たちの荷物が運び出されたのは、十日という期限、ぎりぎりの前日だった。その日伸子は午前に一度、午後早くに一度とパッサージへ出かけた。二度目に行ったとき、伸子は三時間事務所の壁ぎわの長椅子で室のわりあてられるのを待った。
七
毎晩十二時に、クレムリンの時計台からインターナショナルの一節がうち出される。その響きがまた夜空を流れて伸子たちの室の窓辺にきこえるようになった。
パッサージに住めた伸子の安心は、思いがけない楽しさでゆたかにされた。偶然、もと住んでいた七四番の、ひろい部屋がとれたのだったが、一九二八年の冬から春にかけてそこに暮したとき、伸子が最初のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の冬景色としてみていたのは、荒涼とした廃墟の鉄骨とそこに降る雪の眺めだった。
パッサージ・ホテルという名の由来は、このホテルをこめてトゥウェルスカヤ通りの角に大きく建っている建物の下に、物産陳列をした勧工場《パッサージ》があったかららしかった。おそらくそこへの取引に出て来た各地方の商人たちが定宿としていたのがいまのホテル・パッサージであるのだろう。
陳列場《パッサージ》の裏側を見おろす位置にある伸子たちの室の窓の下に、ガラス張りだったパッサージの屋根が破壊されたままで鉄骨をむき出していた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の雪は、きのうもきょうも絶え間なく降って、降る雪は、廃墟の鉄骨の上につもり、更にその間の黒い底知れない穴へ消えてゆく。窓に佇んで降っては消え、降っては消える雪片を眺めていると、伸子は軽いめまいを感じた。狭い往来をへだてた場所では大規模な中央郵便局の建築工事が進行中だった。夜中もプロジェクトールの強い光が雪の吹きだまりのある足場を照し出している。その対照は、いかにも強烈に、きのうときょうのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を語っているようだった。
こんど七四番の室のドアをあけた刹那、伸子は、そこがまるで別なところになったような感じがした。キラキラした明るさが、うす青い壁にかこまれた室じゅうに反射している。パッサージの屋根に、いつかすっかりガラスがはいっているのだった。トゥウェルスカヤ通りからみると「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊」と重々しく派手な電気看板がついた、そこの屋根にあたるのだった。
夜になると、伸子はわが目とわが耳とをうたがった。ガラス屋根は、内部にともされるどっさりの燈火をうつして柔かくガラスのランターンのように輝きはじめた。柔かな明るさの奥から、音楽がきこえた。伸子たちの室の窓は、パッサージの屋根より高いところにあったから、そのガラス屋根の輝きやそこから微かに湧いてきこえる音
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