オて来たもの、その中に生きて身につけて来た細目の全面が立体的にもち上って、一層組織的に、一層計画的に展開される時にはいった。僅かのうちに伸子に耳新しい新造略語がたくさん出ている。それらのどれもが、五ヵ年計画と生産経済計画《プロフィンプラン》に関連していた。伸子が初めて経験するばかりでなく、おそらくソヴェトの人にとって初めての経験であるに違いない数字に対するつよい感受性が、一般感情のうちにあらわれていた。数字はケイ紙の間にかきつけられてだけいるものでなくなった。数字はエネルギーの生きている目盛りであり、そこに人々は自身の努力の集積を見守っていた。ある数字は、はっきりしたよろこびでよまれた。ある種の数字に対してはきびしい批判がよびおこされた。そして、ソヴェトに暮しているかぎり、どんな人でもそれらのあつい数字[#「あつい数字」に傍点]からのがれることは不可能なのだった。
三
ソヴェトのそとで暮した七ヵ月は、伸子を成長させた。ロンドン。パリ。ベルリン。ワルシャワ。そこにあった生活とモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活との対照は、あんまり具体的であった。さまざまな粗野と、機械的なところがあるにしろ、総体として一つの社会の人間がよりましな条件で生きる可能は、どちらにあるか――資本主義と社会主義と――それは最も下積みの生活をよぎなくされている多くの人々のこころに、希望をもたらすのは、どちらであるか、ということだった。それについての伸子の理解は深まった。理解から生活の情熱となった。伸子がただ一人の若い女にすぎないのは何といいことだろう。ロンドンやパリで暮している人々は気がねなく彼女の前にソヴェト社会についての態度を示し、資本主義列国の外交政策の本質を教えるように話してきかせたことは、何とよかったろう。伸子はパリやロンドンにいるうちに、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にあるものの価値をよりたしかに自身の内容にしたのだった。
そのような成長にかかわらず、伸子は、他の一面でおくれた。一九二九年という特別に歴史的だった十二ヵ月のなかば以上を、ソヴェト同盟の外の世界に暮していたということで。――モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰って二三日たつと、伸子は自分のおくれを痛切に感じはじめた。素子は、そういう伸子を注意ぶかく見守っていた。伸子のおくれは、伸子自身でどうなり解決すべき性質のものだということを、無言のうちに示していた。本棚一つのあちら側と伸子のいるこちら側との間に、少くとも1/4半期を意味するでこぼこがある。はっきりと、その差があらわれていること、そこに素子の悪意のない復讐のこころよさがあるようであった。伸子は語学の許すかぎり、新しいソヴェトについての勉強をはじめた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のそういう生活に戻って思いかえすと、ロンドンにあった巨大なうちかちがたい貧富の裂けめと、イースト・サイドに溢れて親から子につづいている歴代の惨めさが、ひとしお伸子の心に迫って来る。伸子は、出歩き、よみ、出歩かない日には、ロンドン印象記をかきはじめた。
ルケアーノフの下宿では、木曜日の夜が伸子たちの入浴日だった。伸子は、きょうこそ風呂の前に、ほこりっぽい仕事を片づけてしまおうと思って、正餐《アベード》がすむと、素子の本棚の下から、束のままつくねてあった日本からの新聞・雑誌類をひっぱり出した。
デスクに向っていた素子が、
「そうそう、それをやる前に、ぶこ[#「ぶこ」に傍点]によませるものがあったっけ」
椅子から動かず、うしろ手で、封のきられている二つの封筒を伸子にわたした。一通は、河野ウメ子からの手紙だった。もう一つの方は、めずらしく浅野蕗子から来ている。蕗子は伸子たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で暮すようになってからたまにエハガキをよこすぐらいで、口数のすくない人らしく筆数も多くなかった。伸子は、何となく二つの手紙を見くらべていて、蕗子の手紙からよみはじめた。
まじめな字が、蕗子の、ちょいとながしめで伸子を見て笑うときの口元のようなふくらみのある文章で語っていた。お二人がパリから下すったエハガキはうれしく拝見いたしました。あれから、いくたびもおたよりをしようとしながら、つい書けませんでした。私のところでは、思いがけないことがおこったのでした。弟が急に亡くなりました。急に――おわかりになりますでしょうか。伸子さんには分って頂けることと思います。
伸子さんには分って頂ける――弟が急に死んだ。それは保が急に死んだように死んだと解釈するしかない文面だった。蕗子の弟――どうして自殺したのだろう。伸子さんには分って頂けるという、ふくみの中には、その原因がやっぱり保の
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