ュなって蜂谷良作からかりて来た鞄だった。
「ぶこ[#「ぶこ」に傍点]のもんじゃない」
伸子は、素子の神経におどろいた。
「蜂谷さんにかりて来たのよ、入れるものがなくなっちゃって」
「――かえさなけりゃならないのか?」
「そんな必要ないでしょう」
かりた鞄をどうするかというようなことについて、蜂谷も伸子も考えていなかった。もし、かえさなければならないことになっていたとすれば、それはどういう意味をもつものとして素子にうつるのだろう。パリでの生活については自分を素子の前に卑屈にしまいときめて、伸子は帰って来ているのだった。
だまって伸子は荷物整理をつづけた。しばらくして素子が気をかえたように、半ば自分を説得するように、
「まあいいだろうさ!」
と云った。
「蜂谷君も、せめて鞄ぐらいサーヴィスしたっていいところだろう」
鞄ぐらい、と目の前にある物についていうのがおかしくて、伸子は笑い出した。
「どうして鞄[#「鞄」に傍点]ぐらいなの?」
「だって――そうじゃないか」
素子は、すーっと瞳孔を細めた視線を伸子の顔に据えた。眼の中にこの数ヵ月の間、折にふれて燃えた暗い焔がゆれている。伸子は暫く素子の視線を見かえしていた。素子のうらみが伸子にわかるのだった。だけれども、ほんとうには、素子がうらむような何一つないのだ。しずかに素子のそばへ歩いて行った。そして自分の頬っぺたと喉の境のところを素子の鼻さきにすりつけた。
「ね、よくかいでみて――別のにおいがする? 何か、ぶこ[#「ぶこ」に傍点]とちがうにおいがする?」
「――ぶこちゃん」
トランクをいじっていた両手はうしろにはなして、顔だけさしよせている伸子を、柔かな部屋着の上から素子が抱きしめた。
「――半分だけ帰って来たなんていうのじゃないのよ」
「わかるよ、わかるよ」
二人はその晩おそくまでおきていた。
夜がふけるにつれて、パリとモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]とをへだてている距離の絶対感が、真新しい刃で伸子の心を一度ならず掠めた。いまは安心して伸子にまかせきっている素子の、こんなにもかぼそい女の手。ウィーンのホテルで自分をつねったり、ぶったりしたこともあるこの指の細い手。自分が帰って来たのは、やっぱりこの手そのものへではない。その意識があんまりまぎらしにくくて伸子は素子の前に瞼をふせた。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]が変りはじめている。その変り工合は、見たものでないと信じられないかもしれない。素子がそう書いてよこしたのは真実だった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は変りはじめた。伸子たちの住んでいるアストージェンカの角から猟人広場《アホートヌイ・リャード》までゆく道の右側、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河岸に、少くとも七階か八階建てになりそうな巨大な建築工事がはじまっていた。それはソヴェト宮殿だった。中世紀的なクレムリンの不便な建物の中から、落成したらソヴェト政府が移るべき近代建築が着手されはじめていた。
猟人広場《アホートヌイ・リャード》そのものの光景も一変している。一九二七年の初雪の降りはじめたころモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に着いた伸子と素子とが――とくに伸子が、その広場を中心にトゥウェルスカヤ通り、赤い広場、劇場広場、下宿暮しをするようになってからはアストージェンカと、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の中に小さい行動半径を描いているその猟人広場《アホートヌイ・リャード》の名物であった露店商人の行列が、七ヵ月留守して帰ってみたら、ほとんどなくなっている。そのかわりに、春のころは、協同販売所という看板をかけてあるぎりで、入口の赤錆色の鉄扉がしめられていた店舗が二軒並んで開かれていた。店内は品物不足だった。買物籠を腕にかけ、プラトークで頭をつつんだ女が一つの売場の前にのり出してきいている。
「バタはいつうけとれるんですか」
「一週間あとに」
「どうして? おかしいじゃないの。わたしが一週間前に来たとき、お前さんは一週間あとに、って云ったくせに」
「もう一遍、一週間あとに、なんです」
「いつだってそうなんだ! うちには子供がいるんですよ」
わきに立って問答をきいていた白髪の肥った婆さんが、古風なモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の口調で云った。
「ごらん、これだからね、おっかさん《マームシュカ》。主婦たちが協同組合のウダールニクをこしらえなけりゃならないってわけなのさ」
多くの生活を知って、まだまだ老耄していない年よりの大きい眼が、そばにいる伸子をちらりと見た。
「あの人たちには分らないさ。まだ、自分の口ひとつを心配していればすむ年頃だもの、よ」
ソヴェトの人々は五ヵ年
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