ヘ、伸子の胸に、七千の人々の墓へのいとしさをかきたてた。伸子は、近くの十字架の一つをかがんで見た。白い十字架が、兵士の不動の姿勢をとって並べられているように、その墓標の上で第一に目につくように記されているのは、彼らの生きていたときの兵士番号であった。626・アレクサンドル・550R――|フランスのために死せり《モルト・プール・ラ・フランス》。

 自動車は速力を増して、丘陵に向う一本の広い道をのぼって行った。ヴェルダン市の廃墟からは東北にあたって、ルクセンブルグの国境とアルザス地方につづく丘陵地帯に大小三十数箇所かの要塞がつくられていて、第一次大戦時代、フランスの一等要塞をなしていたのだった。
 ここが戦場であったときから十数年の星霜を経ている。それだのに、伸子たちの乗っている大型セダンがエンジンのうなりをどこか遠い空のかなたにふるわせながら疾走してゆく道路の左右は、うちつづく砲弾穴に薄《すすき》のような草が高く生えている傷だらけの地面だった。あたりに一本の立木ものこっていない。荒涼とした道がつづいて、いつとはなしみんなのこころに感傷がしのびこんだころ、行手に、黒と白の大理石で建てられた壮大な建物があらわれた。ギリシアの神殿になぞらえた納骨堂であった。柱列の間に高くはめこまれている白大理石の板に、おびただしい名前が金で象嵌《ぞうがん》されている。その一つ一つの姓名の前に、軍隊での階級がついていて、殿堂の内壁に名を記されているのは、みんな将校の身分だった。その身分の中にも階級の区別が守られている。少尉、中尉、大尉。その階級の人々は一方の壁に。少佐から大佐は他の壁の大理石板の上に。そして、少将、中将の階級の軍人の名は、その殿堂の一番天井に近い位置に、特別誰の目にもよみやすい大文字で金象嵌されているのだったが、その大文字階級の軍人の名の数は、その殿堂の大理石板の面をうずめている戦死将校の数の千分の一にも満たないかと思われた。
「このヴェルダンでは四十万人のフランス人が死にました。ドイツ軍は六十万の損害でした」
 だが、大文字の金象嵌は、殿堂の頂き近く文字のとおり暁の星のまばらさできらめいているのだった。
 殿堂の正面からは、ヴェルダン市の廃墟をふくむ豊沃なシャムパーニュの地平線が平和に展望される。納骨堂はさながらその豊沃なフランスの平野に君臨しているようだった。同時に二万の兵士をヴェルダンの風雪の中にさらしたまま、永久の閲兵式を行っているようでもある。殿堂に正面を向けて二万の白い十字架が整列しているのだった。彼らが何を考えて生き、そして何を苦しんで死んだかということについては語らず、彼らの番号と名だけを十字架の上にしるされて。
 伸子の眼の中に悲しみとはちがう涙がにじんだ。一行の人々は、天井へ仰向いて有名な将軍の名をよんでいる。一人はなれて佇んでいる伸子の唇からうめくようにロシア語がもれた。|何のために《ドリヤ・チェヴォー》※[#疑問符感嘆符、1−8−77] じっさい、何のために? これらの人々は死に、死んでまでものこる階級による殿堂がつくられ、風光明媚なジェネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、贅沢な道具だてにかこまれながら快適に軍縮会議が演じられている。
「|フランスのために死せり《モルト・プール・ラ・フランス》」しかし、それはフランスの誰のため[#「フランスの誰のため」に傍点]だというのだろう? フランスの政治がひとにぎりの人々パリ・オランダ銀行の重役たちに支配されていることは周知の事実である。そのパリ・オランダ銀行はドイツの軍需会社クルップ――そこでこそ一九一八年にパリを砲撃した長距離砲ベルタが製造されたクルップと、毒ガスのイーゲー染料工業と結んでいる。国際連盟《リーグ・オブ・ネーションズ》の提唱者はウイルソン大統領であった。けれども、そうしてできた連盟にアメリカは参加しないでいる。一方で国際連盟は、ソヴェト同盟の参加を拒みつづけている。あらゆる機会をうかがって、反ソヴェト十字軍が準備されている。――ふたたび戦争をしまいとする意志。番号順に整列させられているこの二万の白い十字架こそは、マクベスの城のぐるりにあった森のように動いて、シルクハットをかぶって平和を語っている人々をとり囲み、その真実を問いつめる権利をもっているのだ。

 スーヴィユの要塞。それからヴォー要塞。伸子たち一行の自動車が、ヴェルダンで最も苛烈な戦闘の行われたというドゥモン要塞への道にかわったとき、よく晴れていたその一日も終りに近く、傾いた西日に山容が黒く近く迫って見えた。朝夕のうす霜で末枯《すが》れはじめたいらくさ[#「いらくさ」に傍点]の小道をのぼって行くと、思いがけず茶色の石でつくられた祭壇風の建造物のよこへ出た。二メートルほどの高さで斜面から数
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