tとしてこの首の座へ直らされるとき、この広場には、四方の門から、どんなにぎっしり群集が集って来たことだろう。みんなは首を斬られなければならない人物をあわれがり、自分たちの大きく正直な肉体にその恐怖と痛みを感じ、いくたびも胸に十字をきりながら、息をころして無残ないちぶしじゅうを凝視しただろう。その群集の訴えに向って、血の流されている首の座に向って、クレムリンの住人ツァーの一族がふりかざしたものは林立する十字架だった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河への道も有平糖細工のような二つの大教会でふさがれている。この広場にたぎった思いにこたえる人間らしいものは、どこにも見あたらない。
どこの国の都でも、そこの広場には民衆の歴史のものがたりがつながっている。それだからこそ広場は面白く、あわれに、生きている。雪に覆われた赤い広場を眺めていると、ここには濃い諧調と美とがあって、伸子は、抑えられつづけた人間の執拗な蹶起《けっき》の情熱に同感するのだった。
その日は、珍しく素子も一緒に散歩に出た。素子と伸子の二人は、トゥウェルスカヤ通りが終って、クレムリンの門へかかる手前で、一軒の菓子屋へよって、半ポンドの砂糖菓子を買った。そんな買物をするのは素子として滅多にないことだった。
「ちょっと、一つだけ」
伸子は紙袋から、苺《いちご》模様の紙にくるまれたチョコレートをつまんで口に入れ、同じように頬ぺたをふくらましている素子とつれ立って、広場の入口まで来た。きょうもその辺をぐるりとまわって来るつもりだった。
いかにも晴れやかな厳寒《マローズ》で、露天商人もいつもよりどっさり出ているし、赤い広場の黒い二本の踏つけ道の上にも、一列につづいて、絶えず通行人がある。めったにこの辺をぶらぶら歩きすることもなかった素子は、
「やっぱりここの景色は味があるね」
と広場のはずれに立って、あちこち眺めわたした。そして、城壁に沿って足場めいたものの見えるレーニン廟へと目をとめた。
「一向工事がはかどってないじゃないか」
レーニンの遺骸を、その姿のままに保存して、公開していたレーニン廟は、伸子たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たころから修繕にとりかかって、閉鎖されていた。
「なおったら見るかい?」
「なにを?」
「レーニン廟というものを、さ。――世界名物の一つですよ」
素子は、いつもの皮肉な笑いかたをして伸子をみた。
「わたしは、見ない」
笑おうともしないで、遠いそっちを見つめながら伸子が答えた。
「――気味がわるい――それに変だわ。――レーニンは、死んでるから、うるさくないかもしれないけれど……」
「これだけの仕事をやっていながら、あんな子供だましみたいなこと、やめちまえばいいのさ。――これだからわるくちを云われるんだ」
二人は、支那門へ向う踏つけ道を行った。「サトコ」のオペラの舞台が見せるように、諸国からモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へと隊商たちが集った昔には、この辺に蒙古を横切ってやって来た粘りづよい支那商人のたむろ場所があったのだろうか。支那門のわきにも、いろんな露店が出ていた。こちらには食糧品が多かった。バケツに入れたトワローグ(クリームのしぼりかす)などまで売っている。素子と伸子とはそういう品々を見て歩き、素子は素子らしく、ホテル暮しでは買ってもしかたのない鶏一羽の価をきいたりした。そして、一人のリンゴ売りの前へ来かかった。年とったその男は、ものうげに小さい木の台へ腰をおろして、山形につみ上げたリンゴを売っていた。ちょっと肩のはった形で、こいクリーム色の皮に、上気《のぼ》せた子供の頬っぺたのように紅みが刷かれている。そのリンゴは、皮がうすくて匂いの高い、特別に美味しい種類だった。ただ赤くて、平ったく円いリンゴよりは価もいい。素子は、
「うまそうなリンゴだね」
と立ちどまって見ていたが、
「パチョム(いくら)?」
くだけたねだんのききかたをした。リンゴ売は、ろくに開けていないような瞼の間から、ぬけめなく、価をきいているのがロシアの女でないことを認めたとみえ、
「八十五カペイキ」
わざとらしいぶっきら棒さで答えた。
「そりゃ、たかい」
素子が、こごみかかって果物を手にとってしらべながら、ねぎりはじめた。
「七十五カペイキにしておきなさい。七十五カペイキなら六つ貰う」
素子が、買いもののときねぎるのは癖と云ってよかった。日本でも、一緒にいる伸子がきまりわるく感じるほど、よくねぎった。気やすめのようにでも価をひかれると、もうそれで気をよくして払った。あいにくモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では、辻待ちの橇も露天商人も、素子のその癖を刺戟する場合が多かった。伸子は、こういうことがはじまるとわき
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