ミ仮名ワ、1−7−82]では快晴がつづいた。冬の青空がたかく晴れわたった下に、風のない真冬の日光が、白雪につつまれた屋根屋根、雪だまり、凍った並木道の樹々を、まばゆく、ときには桃色っぽく、ときには水色っぽく、きらめかせた。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河の凍結もかたくなった。雪の深い河岸から眺めると、数株の裸の楊の木が黒く見えるこっち側の岸から、小さな小屋のようなものがポッツリと建っているむこう岸まで、はすかいに細く黒く、一本の踏つけ道が見えた。凍った河づらの白雪の上に黒い線に見える横断道の先で、氷滑りをしている人影が動いた。人影は雪の上で黒く小さく見えた。
この季節になってから、赤い広場の景色に風致が加った。トゥウェルスカヤ通りが、クレムリン外壁の一つの門につきあたる。漆喰の古びた奥ゆきのふかいその門のアーチのぐるりには、毎日、雪の上に露店が出ていた。どこでもそうであるとおり、先ず向日葵の種とリンゴ売。靴みがき。エハガキ屋。粗末なカバンや、原始的な色どりのコーカサス絹のカチーフを並べて売っているもの。門のまわりはこみあっていて、裾長の大外套をきた赤軍の兵士だの、鞣外套のいそがしそうな男女、腕に籠を下げて、ゆっくりと何時間でも、店から店へ歩いていそうなプラトークのお婆さん。なかに交って、品質はいいけれども不器用に仕立てられた黒い外套をつけた伸子のような外国人までもまじって流れ動いているのだが、伸子は、いつも、この門のアーチを境にして、その内と外とにくりひろげられている景色の対照の著しさに興味をもった。アーチをくぐりぬけて、白雪におおわれた広場の全景があらわれた途端、その外ではあんなに陽気に動いていた人ごみは急に密度を小さくして、広場には通行人のかげさえまばらな寂しい白い真冬がいかめしかった。
韃靼風に反りのある矛形飾りのついたクレムリンの城壁が広場の右手に高くつづき、その城壁のはずれに一つの門があった。そこに時計台が聳えていた。その時計台から夜毎にインターナショナルのメロディが響いて、こわれた屋根を見おろす伸子のホテルの窓へもつたわった。クレムリンの城壁からは、そのなかに幾棟もある建物の屋根屋根の間に、高く低く林立という感じで幾本もの黄金の十字架がきらめいていた。広場のつき当りに、一面平らな雪の白さに挑むように、紅白に塗りわけられたビザンチン教会がふくらんだ尖塔と十字架とで立ち、そのかたわらに、こっちの方はしぶい黄と緑で菊目石のようにたたみあげられた古い教会が並んでいる。これらの教会は十六七世紀につくられたものだった。広場の左側には、どっしりとした役所風の建築がつらなっていてその建物の数百の窓々が赤い広場を見おろしていた。
広場の雪に、二本の踏つけ道が、細く遠くとおっている。一本はトゥウェルスカヤ通りの方から来た通行人が、歴史博物館の赤煉瓦の建物のよこから、レーニン廟の前をとおり、広場をよこぎって、時計台の下からモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河岸へ下りてゆく道。もう一本は、双曲線を描いて、左側の大建築の下につけられているアーチから、支那門とよばれているクレムリンに相対するもう一つの門へ出てゆく道。白い雪の上に、二本の踏つけ道は細い糸のように見えた。まばらに、そこを通る人々は、一列になって、踏つけ道の上をいそいだ。
伸子は、この雪の広場の全景がすきだった。
赤い広場の白雪の中に、円形の石井戸のようなものが灰色に突ったっていた。そのそばへ行く人はないから、その円形の石井戸のぐるりの雪は降りつもったままの厚さと、白さとできらめいている。遠くからは見えないけれども、その浅い石井戸のようなものの中に、あんまり高くない石の台があった。丁度、大きい男がひざまずいてのばした首がのるぐらいの高さで、――そして、太い鎖がたぐまって、その台の下に落ちていた。ここが、昔モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]がロシアの首都であった時分しばしばつかわれた有名な|首の座《ローブヌイ・メスト》だった。ステンカ・ラージンも、プガチョフも、この首の座で、彼らのちぢれ髪の、髯の濃い、太い農民の首を斬られて血を流した。自分の名をかくことさえ知らなかったその時代のロシアの民衆の呻《うめ》きを彼らの呻きとし、母なるヴォルガの流れをさかのぼって、当時のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の暴虐者ツァーに肉迫した。ステンカ・ラージンの歌は、雄々しさと憂愁とをこめたメロディーで外国へもひろまっている。
ひろい雪の上でさえぎるものない視線に、この首の座とクレムリンの城壁から林立している金の十字架の頂きを眺めあわせると、伸子は、いつも激しい叙事詩の感銘にうたれた。代々、いろんな人たちが、名のないステンカ・ラージンやプガチョ
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