諱A日本のお金で七十五銭だけの御飯をたべるの、それでもよくて?」
「七十五銭?――六フランとちょっとだな。……しかし、どこからその七十五銭てきまりが出たんです?」
「吉見さんが、九十九円七十五銭の小切手をくれたんです。そのしっぽの七十五銭というわけなの」
伸子がおもしろがって、二人で六フランという粗末なひるめしを計画するには、わけがあった。吉見素子はこれまで翻訳ではいくつかの仕事をして来ていたし、その力量にも一定の評価をうけていた。けれども、自分で書いた創作も評論もなかった。わたしは、翻訳だけしか出来ない人間なのかい、そんなのいやだよ。駒沢に暮していた時分にも、折々素子がそう云うことがあった。ぶこちゃんが書くひとなのが、その点ではよし、あしだ。知らず知らず、わたしはすくんじまう。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからも、素子は何もかかなかった。どうして? それほど文学ニュースを知っていて、もったいないのに。書けば、みんなの役に立つのに。ロシア語がよく出来ない伸子は、時には素子の雑談さえ、日本へしらせればいいのに、とすすめた。それでも何一つ書かなかった素子が、この夏、伸子といっしょにロンドンへ行って、そこから先に一人でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰って来てのち、ソヴェト文学の最近の動向についての評論をかいた。それが文明社の綜合雑誌にのった。そしてモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の吉見素子へ原稿料がおくられて来た。九十九円七十五銭は、その原稿料なのだった。これはおはつ[#「おはつ」に傍点]だから、みんなぶこちゃんに進呈する。素子の手紙にはそう書かれていた。いつも書くことをすすめていてくれたのは、ぶこだから。そして、ぶこがそっちにいて、わたしは一人だもんだから、話しあいてもなくて、ついそんなものを書いてみる気にもなったんだろうから、と。
伸子は、はじめどこか上の空のような視線でその小切手を眺めた。その小切手が送られてきた手紙が、同時にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ着いた日の多計代の行動を知らしていたのだった。
伸子は、ベルネの二階のせま苦しい机の上で、絵入りの礼手紙をモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の素子にあてて書いた。中央にはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の小さい四角な換気窓《フォルトチカ》のついた二重窓に向って、あちら向きに机についている素子の後姿がある。伸子は首を曲げまげ、素子の特徴である撫で肩の工合が、そっくりのように描いた。そのぐるりの、ふち飾りのようにして、いろんなものを描いた。クレムリンの城壁とその城壁の上空にひるがえっている赤旗。素子がパリにいたころ、ヴォージラールのホテル・ガリックの七階の暑い部屋のテラスから二人で見晴したパリの屋根屋根。そこに林立している無数のパリ独特の細い煙突。はるかなエッフェル塔と、それに加えて伸子は、もらった小切手で買おうと思っているマチスの素描集の表紙の絵をかき添えた。そして、地図の丸い目玉をかいてヴェルサイユ門と註したところから、おもちゃの電車が走ってクラマールへついたところに、ベルネのお婆さんのふくらんだ大前掛の姿が現れ、でこぼこの大きい西洋梨があり、「資本論」がある。それらは、伸子がこれまで書いているたよりの中で、みんな素子に知られているはずのものばかりだった。
弱い、不確なペンの線で、次から次へとそんなものを描いているとき、伸子の心は涙ぐんで、最初の九十九円七十五銭を自分にくれた吉見素子のこころもちと、絶えずいかめしく、娘である自分を警戒している母の多計代のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]での仕うちとを、思いくらべたのだった。
「ですからね、わたしは、きょうの八百五十六フランは特別大切に使うの」
「ふーん。きみたちの間には、そういうこころもちがあるのか」
蜂谷良作は、
「吉見君にも、あれでなかなかいいところがあるんだな」
むしろ感慨ふかそうに云った。
「そうでなくて、どうしてこんなに長い間暮して来られるもんですか」
「そういうわけだな。――そりゃ、たしかにそうだ」
深く会得するように、蜂谷良作はうなずいた。素子が、あれで、思いもよらないとき急におこり出したり、おこると、そのおこりかたがひどくて、妙にぐらん[#「ぐらん」に傍点]と居直るような切ないところさえないなら……。たとえ、こういう小切手をもらい、それを心からうれしいと思っても、そういうときの素子に、伸子がついて行けないことに変りはなかった。そのついて行けなさは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活の間に伸子の側で強くなって来ている。あいてが誰であるにしろ、ひとからおどかされて泣いたりするような自分、
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