ェ気にいったらしく、つや子は機嫌よく、客間の隅にかたよせてある絵の道具をもち出した。カンヴァスの上にはつや子の性格のあらわれた強いタッチで、前景に露台のある並木越しの風景が描きかけてある。ブルヴァールをへだてた遠くに、赤白縞の日よけをさし出した一軒のカフェーがここから見えていて、つや子の絵の中にそこも入れられているのだった。
「お姉さまあ、こっちへ来てみない?」
「うん」
「ねえ、いらっしゃいよう」
「ちょっと待って」
片づけられた食堂のテーブルのところから伸子を気軽に立ち上らせないのは、やっぱり、けさのごたごたの、いやなあとあじだった。伸子は、きょうも夜になればいつもどおりモンソー・エ・トカヴィユへ帰ってゆくつもりだし、急に引越そうとも考えなかった。そんなことは、伸子としてくよくよ考える必要はないわけだった。伸子に何のひけめもあるのではないのだから。
しかし、ホテルに対する抵抗の気分は、伸子をおちつかせなくさせた。ジェネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]行きの間だけペレールにとまるのはいいとして、そのあと、つづけてここに暮さなければならないような事情におかれては、伸子は困るのだった。それに、ここは佐々のうちのものが出立すると同時に、あけわたす契約になっている。
安定を求めて、あすこ、ここと考えめぐらしていた伸子の頭に、ふっと蜂谷良作にきいて見ようという考えが浮かんだ。その思いつきはあっさりしていて、伸子を躊躇《ちゅうちょ》させる何もなかった。
伸子は、ハンド・バッグから小さい手帳を出して、そのうしろに蜂谷良作が書きつけて行ったクラマールの八四五という電話を呼び出した。蜂谷は在宅だった。伸子は、ごくかいつまんで、今朝のあらましを話した。
「ふらちな男だな。どういうんだろう。僕が行って談判してみてもいいですよ」
「ありがとう。でも、それはいいんです」
今さら、男のひとに出てもらう気は、伸子になかった。
「ただね、もしかしたら、部屋の事でお心あたりがあるかしらと思って」
「――じゃこうしましょう、僕はどうせ、きょう午後から用事があって市内へ出るから、そうだなあ……二時ごろになるかな、そちらへよって見ましょう――ペレールでいいんでしょう?」
よびたてたようで、伸子は気がひけた。
「そんなことは、かまわない。どうせ、ついでなんだから……」
蜂谷良作は、その午後約束の時間に伸子をたずねて来た。
六
蜂谷良作とつれだって、伸子はその日のうちにエトワール附近にある貸室をみに行った。ペレールのアパルトマンの古風さにくらべると、新式で軽快な建物の三階の一室だった。ウィーンの下宿《パンシオン》がそうであったように、ここも持主の住んでいる部屋の入口は別で、ひろやかで明るいエレヴェーターぐちをとりまいて、いくつかのドアのある建てかただった。
灰色っぽい小粋ななりをした、賢い目つきの五十がらみの主婦が、あっさりした態度で、蜂谷良作と伸子にその室を見せた。貸室はエレヴェーターを出て、右手に両開きのドアをもった部屋だった。
ドアがあいて、室内がひとめに見えたとき、伸子は、自分の住めるところではないと感じた。横長くひろびろとしたその室のヴェランダと、大きい二つの窓は、晩秋の色にそまった並木越しに凱旋門の一部を見晴らした。いかにもシャンゼリゼの近くらしい贅沢で逸楽的な雰囲気の部屋であった。この部屋のもち主は、能率よくこの部屋を働かせるために、これまで住んでいた人たちが立つと、すぐその日の午後であるきょうの三時から五時まで面談と新聞広告をだしたにちがいなかった。目を見はらせる室の眺望とともに、これまで住んでいた人の暮しのぬくもり、女がつかっていた香水ののこり香さえまだどこかに漂っている。
もと住んでいた人たちというのは男と女であり、夫婦であって夫婦でないようなつながりで、この美しい眺めの一室に贅沢な拘束のない生活をしていた、そんな風に感じられた。
蜂谷良作は、伸子の柄にもない部屋がまえについて何と感じているのか、表情に変化のない顔つきで、主婦と室代について話している。室代は場所がらと、二つの窓のすばらしい眺望が証明しているとおり高かった。
「御希望でしたら朝の食事だけお世話いたしてもようございますよ、牛乳入コーヒーのフランス風の朝飯なら、これこれ」
ひろい室内をヴェランダや窓に沿ってぶらぶら歩きまわりながら、伸子は、借りないときまっている気持の楽さで、主婦と蜂谷の問答をきいた。
「もし、イギリス流の朝飯がおのぞみでしたら、お二人で、これこれ」
「マダム、部屋をさがしているのは、このマドモアゼルなんです」
正確だが重くて平板な蜂谷のフランス語が主婦の流暢《りゅうちょう》で弾力のある言葉をさえぎった。
「彼女が一人
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