「きさつがあるんだろうとでも思っていらっしゃるなら、つまり、それがもう、一つの偏見のあらわれよ」
「…………」
 伸子は、ちょっと小声になって、
「つや子ちゃん、何時ごろかしら」
ときいた。客間ととなりあわせてドアのあけはなされている食堂の旅行用の立て時計をつや子が見に行った。
「三時四十分」
 つや子はそのまま食堂の椅子にのこった。そして、テーブルの上へ船のエハガキのアルバムをひろげはじめた。
 千種とよばれる青年は、伸子の顔を見ない姿勢のまま、たしかめるようにカフスの下で自分の腕時計を見た。
 やがて、かえる挨拶がはじまるかと待っている伸子に、千種は、
「どうも、あなたの云われることが信じられない」
と云い出した。
「必ず、わかっていられると思うんだがなあ」
 ――伸子の心持が鋭い角度でかわった。伸子は、不愉快に感じたつよい声の表情をありのまま響かせて、
「あなたは、わたしから何をきかなければならなくて[#「きかなければならなくて」に傍点]、いらしっているのかしら」
 何をきかなければならなくて、というところに、身のかわしようのない抑揚をつけて訊いた。
「大使館の方々って、大体、良識《ボン・サンス》だの|好い趣味《ボン・グー》だのって大変むずかしいのに、あなたの社交術はまるで別ね。失礼ですけれど、あなたは、わたしのところへいらっしゃるよりも、フランスの共産党へいらっしゃるべきだったわ。そして、いまおっしゃったようなことを、おっしゃって見るべきだったわ。もし、あなたがわたしにわからない方法でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ行くべき方なら、その理由からわたしのところへなんぞ決していらっしゃるはずがないんです。わたしに、それだけは、はっきりわかります」
「…………」
 伸子は、そろそろ椅子から立った。
「失礼ですけれど、わたし、もう行かなければならないから……」
 もう思いきったという風に、千種とよばれる青年も長椅子から立った。
「その辺まで御一緒しましょうか」
「……仕度いたしますから、どうぞおさきに」
 玄関で外套へ腕をとおしながら、千種は、
「日本じゃ、また大分共産党の大物がやられているらしいですね」
と云った。
「そうらしいことね」
 ロンドンにいたとき、国際新聞通信《インターナショナル・プレス・コレスポンデンス》のそういう記事が伸子の目にはいっていた。それには内容のこまかいことは報じられていなかった。
 いまの伸子は、この千種とよばれる男に早く出て行ってもらいたいばかりだった。
「とうとう佐野学もやられたらしいですね」
 それをきいて、伸子は、同じ緊張のない調子で、
「そうお」
というのに、意識した努力を必要とした。
「じゃ失敬します」
「さようなら」
 出てゆく千種のうしろに玄関の厚いドアをぴっちりしめると、伸子は、そこに立ったまま、羽ぶるいする鳥のように大きく両腕をふって、
「あ!」
と、息をつく声を立てながら、自分の両脇腹へ、おろした両腕をうちつけた。つや子が、
「お姉さま」
と食堂から出てきた。伸子はつい、
「お父様ったら、あんなひと、来させになるんだもん」
 客間の方へもどりながら、じぶくった娘の声で妹に訴えた。
「このひと、何だかこわかった――」
 話の内容からではなく、千種という見知らない男と伸子が応待していた間の、どこか普通でなかった雰囲気を、つや子は少女らしい敏感さで云っているのだった。
「お姉さまはもう磯崎さんのところへ行かなけりゃいけないんだけれど、つや子ちゃん、一人でいい?」
「――いいわ。おかあさま、きっともうじき帰っていらっしゃるから」
「ベルが鳴ったら、自分で出ないで、マダム・ルセールに出てもらいなさい、よくて。だれもいないときならそのままにしておいていいから」
「そうする」
 出かける仕度をしている間じゅう、つや子と口をききながらも、佐野学もつかまったという、さっきの言葉が伸子の頭からはなれなかった。佐野学という名は、日本共産党の指導者として、一般に知られている名だった。日本にいた間はもとよりのこと、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に来てからも、その人についての伸子の知識はごく漠然としたもので、理論的に理解が深められたというのではなかった。けれども、一つの国で共産党の指導者という任務が、どれだけ重要な意味をもつものであるかということは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]暮しをしているうちに伸子の精神にうちこまれていた。佐野学がつかまったということは、非合法ながら成長しつつある日本の共産党にとって、打撃であることを、伸子は実感にうけとった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で去年の三月十五日の大検挙を知ったときは、それが泰造から送られた赤インク
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