ニ学校を卒業しただけで、商会の店員になったらしく、彼の体格は、年とった母より、ずっとわるかった。伸子が、二階づくりのバスにのって、商業地域《シティ》から、奥にひろがるロンドンの東区を歩きまわるとき、そこで出会って来る数万の店員《クラーク》たちの一人であった。両肩がすぼんで、すこし猫背で、くすんだ顔色の冴えることのない若者たち。
日曜日の午後、東《イースト》の大公園ヴィクトーリア・パークのせまい池は、そういう若者たちが、男同士、または女の友達をのせて漕ぎまわるボートで、こみあっていた。
その池にそって、散歩道の上には、あとからあとから家族づれの散歩者の列がつづいた。彼らの間には、何とどっさりの乳母車がおされて行っただろう。若い母親が夫とつれだって押してゆくのもあったけれど、七つから十二三までのお下髪の女の児が押してゆくのが多かった。二三人の、もっと小さい子供たちは姉娘が押してゆく乳母車のまわりや母親のスカートのまわりにたかって歩いてゆく。散歩行列の中にいるおびただしい子供たちの日曜日用の服は、どの子の服もきつく畳まれていた折目がついていて小さい体から浮くようにこわばっていた。その折目は、いつもはどんなに注意ぶかく、その半ズボン服がしまいこまれているかということを告げた。その人々の生活には、子供用の服ダンスなどというものはないこと。畳んだ服はトランクに入れられて、兄から弟へ、姉から妹へとゆずられていることなどを語るのだった。インディアン・サマアとよばれる夏の終りの明るく暑い日曜日の午後でも、ヴィクトーリア公園の明るさには払いきれない人生のかげりと、隈と、たまにしか入浴させられない子供たちの体の匂いがあった。そこの散歩道をねり歩いている大人や子供の鼻のまわりや口のすみには、いくらシャボンで洗ってもおちない、うすぐろさがあるように。
バスで三十分も乗ってゆくと、伸子の目には全くちがった光景が展開された。笛をふいているピイタア・パンの銅像のあるハイド・パークの一隅から、のどかそうにボートの浮んでいるテームズ河がひろびろと見えた。そのあたりには、英国の血色と言われている、あざやかな顔色と金髪をもってすらりと背の高い若い男女の夏衣裳だの、桃色や白の子供服が楽しそうに動いていた。大公園の中でも伸子たちのいるホテルに近い一廓はケンシントン公園《ガーデン》とよばれて、きれいな芝生の上に、華やかな縞の日除傘をひろげた喫茶店があった。
そういう西《ウエスト》の色彩、声、動き、習慣のすべてはゴールスワージーの小説の舞台であり、バーナード・ショウの皮肉の本質にそういうものがあるように、自己満足があるのだった。西《ウエスト》の人たちは、ロンドンに、自分たちとまったく外見まで違うイギリス人の大群がいることを、至極当然としているらしかった。伸子は、しかし、資本主義がひき出したこれらの二つの人種をあるままに見くらべて驚歎し、やがては奥歯をかみしめるような思いにおかれた。赤坊のときからもうふけはじめて、それなり育ちがとまったような人間の大群。紫外線の不足とよくない食物のために、こまかいふきでものを出している顔色のよくない両肩の落ちた若い男女の大群集。夕刻のラッシュ・アワに、こういう男女の大群集が数万の眼をもつ無言の黒い流れとなって、地下鉄のエスカレータアに運ばれ、自働的に上ったり下ったりしている光景は、緩慢で大規模な屠殺場のようだった。
伸子は、ケンシントンのホテルの五階に、寄宿舎の一人部屋のような狭い室をもっていた。その室の一つの窓は、ケンシントン・ガーデンの芝生を見下した。夕方になると柵のしめられるその公園は、夜じゅうしずかで、ときたま、ねぐらのなかで何かにおどろかされた鳩のつよい羽音などがきこえて来る。毎晩床につく前に、伸子はルドウィッヒ・レーンの「戦争」を数頁ずつよんでいた。ロンドンの本屋には、十年たったいまだに「戦争物《ワア・ブック》」の特別な陳列台があるのだった。
レーンの小説は、理性的で鮮明な描写をもつ戦争反対の作品だった。近代科学の力をふるって大量に人間を殺しあっている前線で、一人の男が、機械力そのものの機械的な性格を積極的につかんで、砲弾の落ちる時間の間隔、角度を測定し、一つの砲弾穴から次の穴へと這い進んで僚友と一緒に自分の生命を救う場面を伸子は読んでいた。おそろしい破壊のただなかでも、失われることのなかったレーンの精神の沈着さ、緊密さは、その小説をよむ伸子のこころを二重に目ざめさせ、活動させた。その小説の頁から時々頭をもたげては、伸子はその日に見て来たいろいろのことについて考え、やけつくように思った。背の低い顔にふきでものを出して、腕が不均斉[#「不均斉」は底本では「不均齊」]に長いようなロンドンの人々の大群は、いつこの西にまであふ
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