トいるドーヴァ海峡の水の色を眺めた。
イギリスの上空にはいったとたん、飛行機の下に見える草木の色が変った。フランスの、うすい灰色や真珠色とまじって軽快に爽やかな自然の緑は、イギリスの重厚に黒ずんだ緑にかわった。それはイギリスの風景画の基調だった。時間を倹約するつもりもあって伸子と素子とは、飛行機でロンドンへ向ったのだったが、午後おそく佐々の一行がとまっているケンシントン街のホテルへたどりついたときの二人は、帳場から電話をしたきり、挨拶にゆく力もなくて、晩餐の時刻まで寝こんでしまった。
素子は、ほんとにロンドンに三日いただけで、パリ、ベルリンを通過してモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰った。伸子が佐々の家族にかこまれているということで、日ごろ伸子についてもっている関心から素子は自由になったというわけだったろうか。ロンドンへ行けば、素子の気分もかわるかもしれないと思った伸子の想像は、あたらなかった。わたしにはパリにいるよりつまらない。第一、かたくるしいや。二日目に素子はそう言った。そして、四日目の朝、ヴィクトーリア停車場から立ってしまった。伸子が、いつモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰るかということも、はっきりとはうち合わせずに。
和一郎と小枝は、伸子たちより二週間おくれてロンドンへ来た。二人は、親たちや伸子のいるケンシントンのホテルには二晩とまったきりで、ミセス・ステッソンの部屋にうつった。ミスタ・ステッソンというひとは、存命中、長崎の領事だったということで、大戦前の日本の、地方の小都市で、たてまつられていた外国夫人らしい権式ぶりだった。伸子をつれて、ミセス・ステッソンのところで部屋を見たり、黒ずくめの絹服をつけたその未亡人と話したりしての帰途、泰造は、
「まあ、和一郎たちには、あれもいいだろう」
と言った。ミセス・ステッソンは、泰造にまで平日は十一時という門限のことや、日曜日の食事は料理女を休ませるから|冷たい皿《コールド・ディッシュ》だと心得てくれ、と言った。
「語学の稽古にはいい。あの夫人はいい英語をはなしていたよ。伸子にわかったかい?」
泰造としては、ロンドンで昔、自分が下宿していたミセス・レイマンの住居をさがしだして、そこへ和一郎夫婦をおきたかった。パリにいたころ、伸子は泰造のそういうこころづもりをきいた。ところがロンドンへ来て、いまミセス・レイマンとその息子が住んでいるところをしらべると、泰造がいたころからほぼ四分の一世紀をすぎたイギリス社会の推移は、このつましい一家の生計を、泰造が下宿していた時分とはくらべものにならず落魄させていることがわかった。変らないのは、ミセス・レイマンがGペンを風雅につかって書く手紙の文字と、彼女の温い親切な生れつきだけだった。ミセス・レイマンは、礼儀にかなった服装がなくて失礼だからと泰造夫婦の晩餐の招待をことわってよこした。若い和一郎夫婦が、「彼らの前途多幸《プロスペラス》な未来」のために、イギリス生活を学ぶ目的のためには、残念なことにわたしの家庭はふさわしい環境でありません。大戦後、わたしたちの生活は、もう二度ともとに戻ることの不可能な変化をうけました。イギリスの多くの中流階級の人々のように。風雅な書体のレイマン夫人の手紙は、そういう風な現実を告げていた。
ミセス・ステッソンが、下宿人をおきはじめたのも大戦後のことだった。ローラとよばれる二十六七の娘は、チャーリング・クロスの近くで友達と服飾店を経営していた。
ミセス・レイマンの手紙にある和一郎夫婦の「前途多幸《プロスペラス》な未来」という文句を、伸子は、言葉に出して誰にいうこともできない懐疑をもって見つめた。ミセス・レイマンにとって懐古的な思いをそそるばかりのプロスペラスという言葉、戦後、ひとしお激しい資本主義経済の波に追いまくられて、ロンドン市内の生活を支えきれず、郊外の一隅へなげだされたささやかな中流の一家。あからさまに言ってしまえば、伸子は、和一郎の代になってからの佐々の家の未来に、ミセス・レイマンが経た生活の推移と大差ない過程を予感しているのだった。
泰造と多計代とはミセス・レイマンとその息子のジャック・レイマンを、少し改まった午後の茶に招いた。七十歳ちかい母親であるミセス・レイマンと三十歳になったばかりというジャックの上に、大戦を境とするロンドンの中流人の経済的な世代のちがいが、あんまりくっきり描き出されていて、伸子は苦しいようだった。ミセス・レイマンはその老年にかかわらず、レースの訪問着はややつかれているにかかわらず、いくらか頬の艷があせているだけで、イギリス婦人らしいしっかりとした骨格と血色を失っていなかった。眼づかいや身ごなしに清潔な気品がのこっていた。
ジャックはおそらく実
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