Nのドアをはいった。ここでもカフェーの方はまだあいている。帳場で蜂谷が部屋の交渉をはじめた。
「部屋はないんだそうだ」
「部屋がない?」
そんなはずがあるもんかというおもざしで、素子が番頭を見た。頭のうすく禿げた番頭は、クリーム色のシャツの前に緑色のネクタイをたらして、とがめるように彼を見る素子に向って、両手を左右にひらいて肩をすくめてみせた。
「いくらかほしいんじゃない?」
伸子がその様子を見て素子にささやいた。
蜂谷は、帳場にもたれるようにして、
「アロール・ムシュウ」
と、また新しく談判をはじめた。
「うそじゃないらしいなあ、きょうは土曜日だから、っていうんだ」
「あ、そうか! そこまで気がつかなかった」
土曜日の夜は、いつも、目立たないながら一夜どまりの男女の組が多くて、大きくもないホテルの部屋部屋はふさがるのだった。
蜂谷は、ぬいでいるソフトを左手にさげて、ハンカチーフで額をふきながら、思案している。伸子も素子も帳場のわきにたたずんだままこまった。もともと、ピスカトールの芝居を観に蜂谷が一緒に行ったのは、伸子たちへのつき合いだった。場末の劇場だし、案内所で扱う切符ではないからと、蜂谷が切符の面倒も見てくれたのだった。
いよいよ、ほかに思案がつかないなら、ふた部屋もっている女二人がかたまって、素子の室をあけて蜂谷が泊れるようにしたらどうなのだろう。伸子はそう思いながらだまって、素子が何とか発案するのを待った。伸子と素子との生活のなかで、こんやのような場合には一種のデリケートさがあった。伸子が先立って、蜂谷がとまれるようにあっせんしたりすると、それは何となし単純なことでなく素子に映る危険があって、伸子は用心ぶかくなっているのだった。
やがて、素子が決心したように、
「ぶこちゃん、われわれがかたまって、わたしの方をあけるか」
やっぱり同じ考えにおちた。
「とんだ迷惑をかけて、すまないなあ」
と云いながら、蜂谷は七階まで二人の女のあとについてのぼった。
「ともかく、ちょいとこっちで休みましょう。それから、あなたの落つき場をちゃんとするから」
伸子の部屋にはいった。屋根裏部屋には、宵じゅうしめこまれていた夏の夜の暑気がこもっている。伸子は、露台のガラス戸をいっぱいにあけた。そして椅子を露台の上へもち出した。土曜日と日曜日の晩だけは夜どおし灯っているエッフェル塔のイルミネーションが、遠い空の中で今夜もシトロエン・シトロエン・6シリンダー・6・6と休みなくまたたいている。
蜂谷良作は、露台の欄干に肱をかけ、遠くエッフェル塔をたてに走っては光っている字を眺めた。
「久しぶりだなあ、パリの夜の景色――やっぱり、いいな」
「クラマールって、そんなに淋しいところ?」
「まわりが田舎ですからね。こんな都会の夜の気分は全然ないですよ。その代り歩きまわるにはいいけれども」
廊下ごしの自分の部屋に行っていた素子が、ねまきや枕や洗面道具などを腕にかかえて、伸子の方へ運んで来た。蜂谷が椅子から立ち上った。
「何か手伝いましょうか」
「いや、もうこれでいいんです」
素子も露台のところへ出て来て腰をおろした。
「ここからの街の風景は昼間も面白いですよ、ペレールあたりなんかより、ずっと趣がふかい。生活があふれているからね」
「そりゃそうだわ、あっちで見えるのはブルヴァールの並木だけですもの」
蜂谷良作はペレールへ佐々泰造を訪ねて、アパルトマンも知っていた。彼がパリにいることが伸子と素子にわかったのも、泰造が偶然知人のところでそこに来合わせていた蜂谷良作にあって、話が出たからのことなのだった。
段々ひえて来る夜ふけの空の下で、蜂谷良作は伸子と素子とに、くも[#「くも」に傍点]の巣のようにいりくんで互に連関しながらはりめぐらされているフランスの国際金融資本の動きと、それによって養われている十字火団《クロア・ド・フウ》のようなフランスのファシスト団体の話をした。その中核であるパリ・オランダ銀行の総裁のフイナリはアメリカのスタンダード石油のフランス代表であり、ドイツの銀行、電気、化学工業トラストに関係していて、大戦中はドイツから資本の出ているノルウェイ窒素の重役としてドイツへ硫酸ソーダを供給していたので、大戦後はイタリーへ亡命していた。
「それが、いつの間にかかえって来て、総裁になっている。パンルヴェ内閣にモロッコ戦争をやらせたのは、この男だ。ウェイガン将軍だとか、リオーテだとか、フランスの参謀本部はかいらい[#「かいらい」に傍点]だからね。イギリスの参謀本部だって、日本の三井だってスイスからニュージーランドの軍需資本家までがフランスのシュネーデルと結びついている。軍縮会議がまとまらないのは当然なわけさ。戦争の危険がほんとになくなられて
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