zに、赤と、碧《あお》の照明のかげが落ちて、たくみに揺れる海の水の重く光る感覚が表現されるのだった。ハンブルグの港湾労働者のストライキからとられたエピソードで、港町の労働者夫婦の生活の物語だった。洗煉されて新鮮な舞台装置とリアリスティックな登場人物とはうまく調和していて、そのような舞台の雰囲気は、レーニンの像やC・G・T・Uという大きな四つの頭文字などを労働者階級のたたかいの旗じるしとしてよりも、むしろ斬新な意匠としての効果にまとめているのだった。
伸子は、自分と素子との間にかけている蜂谷良作に、
「I・S・Rって、何の意味なんでしょう」
ときいた。
「僕もさっきっから何だろうと思って見ているんです。Iはインターナシォナールでしょう。――赤色労働組合インターナシォナールという意味だろうかとも思うんだが――国際社会主義革命ってわけじゃないのかな」
「それじゃ、Sの意味がわからないじゃありませんか」
すこし茶っぽくて柔かい髪をおとなしく左わけにして、大柄な体を地味な服につつんでいる蜂谷良作は、素子にそう云われてこまったような顔をしてだまった。満鉄関係の調査機関から派遣のような、留学のような形でパリへ来ている蜂谷は、伸子と素子が日本であったころには、ある大学の経済学教授だった。かたわら、満州と中国の経済事情の研究をしていた。伸子と素子とが彼と知り合いになったのは、中国旅行から帰って来た蜂谷良作を中心にした、小規模の報告座談会のような席でだった。伸子や素子を能見物に招いたりする楢崎佐保子が、その夜も二人を誘ったのだった。
そのとき、中国共産党の革命の見とおしについて、いろんな角度から質問された。蜂谷良作は、うつむいて一つ一つ質問を注意ぶかくきいて、それに答えたが、中共の革命が成就するまでには、今日の中国の生産条件から見て必ず通らなければならないもう一つ手前の革命的段階がある、というのが彼の根本前提であった。社会主義は、原則として、発達した資本主義の矛盾の中から生れるものである。そうだとすると、中国のアジア的生産は、近代資本主義から数百年もおくれたままの状態であるから、社会主義革命の前に、まずブルジョア革命が行われて、中国の歴史に近代資本主義生産の条件が熟さなければならない。その意味で、自分としては蒋介石政権の役割を、一部の人の批評するように、単なる反動として断定してしまうことには疑問をもっている。蜂谷の、中共革命についての考えかたは、そういうものだった。蜂谷良作の意見をもう一つつきつめてはっきり云えば、中共の運動は要するに中国の大衆の生活に根をおろしていない一部のウルトラどものまきおこしている騒動にすぎない、ということになるのだろうか。二月の上海のジェネストや臨時革命委員会の成立はコミンタン(国際共産党)の革命あそびにすぎないというのだろうか。そう質問したひとがあった。
そのとき、蜂谷良作の、ぼってりして子供っぽいようなところのある顔の上に、濃い動揺の色があらわれた。蜂谷良作はしばらく伏目になってテーブルの上にある鉛筆をいじっていたが、やがて頭をもたげて、中国には特別な事情があることも認めなければならない、と答えた。近代に入ってから列強の半植民地になっている中国としては、民族自立の要求が強烈なのは当然であって、中共の運動はその点で、独特な足場をもっているとも云える、と。
たまに無産者新聞を見ることがあるぐらいだったそのころの伸子には、蜂谷良作の理論について判断ができなかった。彼の教授らしい質問への答えかたと、そこに感じとられた性格的なものが印象づよかった。蜂谷は、自身としてそのどちらにも加担しないまま、蒋介石も中共も、それぞれのものとして認めようとする態度でいる。蜂谷良作の表情を見ると、そのどっちつかずの曖昧さも、用心ぶかさや狡猾さから出ているというよりも、彼として、ほんとにそうとしか考えられないありのままを、云っていることが感じられたのだった。
それから足かけ三年がたった。きょうパリでピスカトールの舞台を見ながら伸子にその意味をきかれ、はっきり答えられなくて素子につっこまれた蜂谷良作の困ったような顔つきは、パリでの一年半の生活が、蜂谷良作をより器用な人物に変化させていないことを告げた。教授という肩書のない現在の蜂谷は、かえって元より精神の柔かい部分――未完成なところをむき出しているようでもある。それが、伸子にも素子にも、蜂谷の気やすさとして、感じられているのだった。
十一時半ごろ芝居がはねた。三人は、うすら淋しい場末の夜の、アヴェニュー・ジャン・ジョレスから賑やかなサン・ミシェルの大通りまで戻って来て、とあるカフェーのテラスで休んだ。
ベルリンで見た「三文オペラ」の舞台と比較して、素子がしきりにピスカトールの芝居の批
前へ
次へ
全437ページ中267ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング