スの?」
「…………」
「お母様は、お金のために和一郎さんが椅子でお母さまをうち殺すことがあるなんて、ほんとにお思いになったの?」
「――伸ちゃんは、あのときの和一郎の相好を見ていないからわからないんだ――ほんとに、あの勢ったら」
「もちろん和一郎さんは、悪いわよ。ひとをおどすようなことをするなんて、男らしくない卑劣なことだわ。――でも、お母様」
伸子の体をあふれてこのいきさつ全体に対する厭《いと》わしさ、悲しさ、腹立たしさが、いっぱいになった。伸子は低い、迫る声で多計代に云った。
「お母様には、その途端にだってわかっていたはずよ。和一郎がそれ以上のことをしようとしていないっていうことは――」
「…………」
「それなのに、なぜ、いきなり、殺されるところだったなんておっしゃるの?」
「…………」
「ね、なぜそんな風におっしゃるの」
渋いような涙が伸子の目の中に浮いた。
「つや子があんまりかあいそうだわ」
多計代も和一郎も、大騒動をして、そのことで感情放散をやっている。十三の少女のつや子に、どうして、そんな事のいきさつが噛みわけられよう。
「和一郎さんには、今後絶対そういう乱暴をさせちゃいけない」
「伸ちゃんからも、よくよく云ってきかせてやっておくれよ」
それよりも先に、多計代の態度だ、と伸子は思うのだった。和一郎のなかには少年のころから神経質でわがままな人間のもっている一種の残忍さがあった。すべてを小枝にあてつける多計代の刺すような言葉が、和一郎にどんなに猛烈な母への憎悪をたきつけるか。それは伸子にも佃のことで身におぼえがある。
「とにかく、お母様も和一郎さんたちの結婚は許していらっしゃるんだから、今更ここで小枝ちゃんのことをとやかく云ったって一つもいい事はないわ」
すると多計代は、伸子にとって思いがけないほど元気な辛辣な口調で、
「へえ。――そりゃあまた伸ちゃんらしくない妥協的なことをきくもんだね」
挑むように娘を見た。
「伸ちゃんの主義は、決して妥協しないっていうのかと思っていたのに」
その調子は、一時の驚きがすぎて多計代がふだんの多計代に戻ったという証拠だった。伸子は議論をさけた。
「お母様、どんなときにも和一郎さんにおどかされる癖をつけちゃだめよ。よくて? あのひとのためにだってこわいことだわ。お母様はよけいな刺戟的なこと云わないで、毅然としていらっしゃればいいのよ。そして、やっぱり事務的なことは事務的に早くかたづけた方がよくはないのかしら」
「お金のことかい?」
「そうなんでしょう? きょうのさわぎにしたって」
「そりゃそんなようなもんだけれど」
多計代は、金の問題を意識的にさけた。多計代は長椅子の上に両脚をのばしたまま向きをかえた。あけはなした露台から、ブルヴァールを越えてひろく夕空が見晴らせる位置になった。
「和一郎が椅子をふりあげたとき、あのひとの手をそこでつかまえているのが誰だか、わたしにははっきりわかった」
前後のつながりなくつぶやく多計代の声を、伸子は憂鬱に聴いた。多計代の調子は特別に重々しく、そのことが、彼女の意味しているものを伸子にさとらせた。多計代は、「彼」が――保の霊が母をまもった、といおうとしている。アパルトマンに引越して来てから、白地|錦襴《きんらん》の包みものは、夫婦の寝台の枕元の台の上におかれているのだった。
八
伸子のまじめな心配は、パリから数千キロはなれた満州とソヴェトとの国境にかかっている。伸子のてぢかななやましさと混乱は、ブルヴァール・ペレール四七番地のアパルトマンにあった。
日曜日で通い女中のマダム・ルセールが休み、伸子が夕飯の支度をした日だった。その晩は泰造もいた。食後、泰造と多計代との間に和一郎の話が出た。和一郎はその日も小枝と一緒に来て、旅費の処置について母の返答をもとめたのだそうだった。この前、和一郎がおこった日も、多計代は、旅費の処分という点ははっきりさせずに、和一郎が我ままを云って乱暴したという風な面を主にして泰造にその日のことを告げていた。きょうも、多計代は、
「ほんとうに、あのひとたちったら、何と考えているんだろう」
相談というよりは、泰造に自分の不服を訴える口調だった。
「つれて来てもらったおかげで、パリだって見ているんじゃありませんか。自分たちの力で何ができるというんだろう」
食堂の食器棚へ洗ったコップをしまいながら、伸子は多計代がそう云っているのをきいた。多計代がそんなニュアンスで泰造の耳に入れる限り、旅費の配分という実際的な問題は解決されようがない。伸子は多計代の態度はごたごたを深くすると思った。泰造は長男に批評をもっているのだから、妻の話しようによってはただ和一郎に対して不愉快な感情をつよくするばかりにきまって
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