ろう。エナメル靴をはいたドーリヤは何ともがいているだろう。
ドーリヤ・ツィンは、今夜七時から友達のところの誕生祝いに出かける。二三人の仲間が誘いに来るのを秋山の室で待ち合わせることになっているのだそうだった。ドーリヤ自身は何も云わなかった。秋山がそのことを話した。そして、
「もう何時ごろでしょうかね」
時計をみるようにした。伸子は、ひき上げる時だということを知った。秋山は、自分のところへ誰か訪ねて来るとき、伸子たちがいあわすことを好まなかった。いつも、自然に伸子たちが遠慮する空気をつくった。
「じゃ、また」
伸子が椅子から立ちかけると、ドーリヤが思いがけないという顔で伸子と秋山を見くらべながら、自分も腰を浮かして、
「なぜですか?」
と尻あがりの外国人のアクセントで云った。
「どうぞ。どうぞ。サッサさん。時間どっさりあります。わたくし、サッサさんの日本語きくのうれしいです。ほんとにうつくしいです」
秋山はしかし格別引きとめようともしないで、立ったままでいる伸子に、
「ああ、おとといニキーチナ夫人のところへ行きましたらね、どうしてあなたがたが来ないかと云っていましたよ」
「そうお――……」
「行かれたらいいですよ、なかなかいろいろの作家が来て興味がありますよ」
「ええ……ありがとう」
伸子は秋山宇一らしく、おととい[#「おととい」に傍点]のことづてをするのを苦笑のこころもちできいた。
ニキーチナ夫人は博言学者で、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の専門学校の教授だった。ケレンスキー内閣のとき文部大臣をしたニキーチンの夫人で、土曜会という文学者のグループをこしらえていた。瀬川雅夫が日本へ立つ三日前、瀬川・伸子という顔ぶれで、日本文学の夕べが催された。日本へ来たことのあるポリニャークが司会して、伸子は、短く、明治からの日本の婦人作家の歴史を話した。その晩、伸子は、絶えず自分のうしろつきが気にかかるような洋服をやめて、裾に刺繍のある日本服をきて出席した。
講演が終ると、何人かのひとが伸子に握手した。ニキーチナ夫人もそのなかの一人だった。伸子は夫人の立派なロシア風の顔だちと、学殖をもった年配の女のどっしりとした豊富さを快く感じた。ニキーチナ夫人は、鼻のさきが一寸上向きになっている容貌にふさわしいどこか飄逸《ひょういつ》なところのある親愛な目つきで、場所
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