カきてゆく要所要所につけ黒子《ほくろ》をはってゆく狡猾な用意がなかったのだ。彼女はおどろくほど一途で正直だった。伸子はそうも思うのだった。川辺みさ子の生涯には、川辺みさ子の生きた社会の姿がそっくり映し出されている。
伸子の下宿のその室には、大きな煖炉がきられていた。冬の季節がすぎて、その中に火がたかれなくなってから程たっている。春の煖炉の、冷えてくらい炉の上の棚に、伸子が街で買って来たパンジーの花束が飾られている。
その下をゆっくり歩きながら、ウィーンで命を絶った川辺みさ子がいまになってみれば、きょうの自分といくらもちがわない年ごろであったことを考え、伸子は新しい哀れに誘われた。あのことがあってから七年も八年もたった。伸子もモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからは新しい社会が作家や音楽家の生活状態がどんなにいろいろな関係の面で変るものかという事実を目撃している。そういう理解の加わった気持で、しんみりと思いかえしてみると、伸子が自分のひとりの心の中で川辺みさ子と自分とが別ものであることをあんなに強調して意識し、一生懸命に自分とは反対の端へ川辺みさ子という存在を押しつけていたにしろ、ひっきょうその気がまえをもっているというだけでは、伸子が川辺みさ子から本質的に別な世界にいるということではなかった。伸子は、そのころ云われていた文士とか女文士とかいう言葉と、そこから連想されている生活ぶりに、嫌厭を感じ、反撥していた。けれども反撥していただけで、それにかわるものがなに一つ伸子にあるわけではなかった。文士の一人であり女文士であることを拒んでいる伸子にあるのは孤立だけだった。その孤立のなかで、伸子はもがきつづけて来ているのだった。
静かな午後の横町の下宿の室でかすかにパンジーの花束がにおう炉棚の下にたたずみ、伸子はあれからこれへと心の小道をたどりながら、半ば無意識に、そこの小テーブルの上に立ててあるモツァルトの薄肉浮彫の飾りメダルを手にとった。ウィーン名物の薄肉浮彫の金色の面に、こころもち猫背で、というより鳩胸のような肩つきで、円い形のかつら[#「かつら」に傍点]をつけたモツァルトの横顔が浮き出ている。
伸子は、川辺みさ子が、晴やかな裾模様につつまれた跛の姿で、ステージにあらわれたときの表情を、まざまざとおもかげにみた。拍手にこたえて何か云いたそうに少しあ
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