ッの頭をもたげてその医者を仰ぎ見、ひとこと、ひとことをあいての理解にうちこもうとするように云った。
「ヤー・ソフセム・ニェ・ハチュー(わたしは全然のぞんでいません)」
みんなの顔に瞬間微笑がうかんだ。
主任医師が、ちょっと考えた末、
「あなたに手術の必要はありません」
そう結論した。医者の一人はそれだけきき終ると手術室のドアの方へ去りかけた。
「フロムゴリド教授はあなたをよく治療しました。あんまり脂《あぶら》っこいものを食べなさるな。ウォツカは一滴もいけませんよ。いいですね」
また運搬車にのせられて、菩提樹並木の間の雪どけ道を内科病室の方へもどるとき、伸子は、
「ナターシャ、どんなにわたしがうれしいか察して頂戴!」
と言った。
「わたしは手術を恐れていたんだもの」
「まったくですよ」
大きなワーレンキとふくらんだ体つきとでロシア人形のようなかっこうのナターシャは、折から行手にあらわれた水たまりをよけながら内科の看護婦らしく同意した。
「わたしも手術はきらいです」
天気のいい午前十一時ごろで、大気はつめたくひきしまっているけれど、三月の日光は晴れやかにその爽《さわ》やかな大気を射とおし、伸子が運搬車で押されて行くふみつけ道のあたりのしずけさのうちには、樹の枝々からとけた雪が、地面にまだ厚く残っている雪の上へしたたり落ちるかすかなざわめきがあった。伸子はまる二ヵ月ぶりで外気にふれたのだった。手術をしないでいいときまって、しんから安心した伸子の体にも心にもよろこびがあふれた。長い冬ごもりからとかれた動物が春の第一日の外出で、自分の巣をもの珍しげに勿体《もったい》ぶって外から眺めるような感情で、伸子は菩提樹並木の彼方の平屋建木造の内科病室を眺めやった。
その午後、病室にあらわれた素子を見るなり伸子は、
「万歳よ!」
握りあわせた両手をすとんとベッドのかけものの上へうちおろしながら告げた。
「悪魔退散よ! 手術しないでいいときまったことよ」
そして、上機嫌のおしゃべりで、伸子はけさ外科へ診察のため運搬車にのせられて出かけて行ったことや、久しぶりの外気がどんなに爽やかで気持よかったかということや、雪どけの道で、どんなに多くの悪魔の黒い穴を見つけたかという話をした。
外科から病室へ帰って来る途中の菩提樹並木のところで、伸子は人のふまない白い雪の上に、いくつもい
前へ
次へ
全873ページ中354ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング