。
約束の第一日、伸子は貰った所書と地図をたよりにこの建物をさがし当てて来た。マリア・グレゴーリエヴナの小皺の多い丸顔には、善良さと熱心さとがあらわれていて、伸子は気が楽になった。早速「黄金の水」がはじまった。短い課業が終って、二人が不自由な英語で雑談していると、入口でベルがなった。
「あら、おかえりなさい! もう?」
出て行ったマリア・グレゴーリエヴナのおどろいたような声がした。対手は男らしいが声は聞えない。伸子がこんどマリア・グレゴーリエヴナが現れたら帰ろうとしていると、
「佐々さん、こんにちは」
ききちがえようのない最低音で云いながら、ノヴァミルスキーが入って来た。つづいてそこへ現れたマリア・グレゴーリエヴナを、
「わたくしの妻です」
と改めて紹介した。
「課業はいかがです?」
ここがノヴァミルスキーの家だとは思いがけなかった。伸子は急にいうことが見つからなくて、
「ありがとう」
と答えた。
「たしかにいい先生を御紹介下さいましたけれども、わたしはいい生徒とは云えないかもしれません」
「そんなことはありません。わたしの経験でわかりますよ」
ノヴァミルスキーもそうだが、妻のマリア・グレゴーリエヴナは、すこし鼻のさきの赤いような顔で熱心に云った。
「佐々さんは、早い耳をおもちですもの」
それにしても、伸子にはやっぱりここがノヴァミルスキーの家だったということが、意外だった。|ВОКС《ヴオクス》で話したとき、ノヴァミルスキーは、まったく第三者の感じだった。自分の妻、その妻の仕事、それを、あんなに、その表情さえも第三者として話した。ノヴァミルスキーは、マリア・グレゴーリエヴナがもって来た紅茶のコップにサジをさしたまま、そのサジを人さし指となか指との間でおさえてのむ飲みかたで美味そうにのみながら、
「革命博物館は見られましたか」
ときいた。
「ええ。見ました」
「あれは独特な意義をもっています。当分は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にしかあり得ない種類の博物館だと思いますね」
ちょっと言葉を改めて、ノヴァミルスキーは、
「私は七年間、牢獄におかれました。アナーキストだったんです」
と云った。
「十月にレーニンに会って、二時間話しあいました。そのとき、私は自分のそれまでの思想をかえたんです。――発展させたんです――発展――おわかりですね」
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