んとのロシアの厳冬《マローズ》がはじまります」
 秋山も、はじめてみるモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の冬らしい景色に心を動かされているらしかったが、
「じゃ、瀬川君に知らせましょうか」
と、内海をかえりみた。
「朝飯前だったんですか」
「ええ。あなたがたが起きられたら一緒にしようと思って」
「まあ、わるかったこと」
 きまりのわるい顔で伸子があやまった。
「わたしたち、寝坊してしまって……」
「いや、いいんです。私どもだって、さっき起きたばっかりなんですから……しかしソヴェトの人たちには、とてもかないませんね、実に精力的ですからね。夜あけ頃まで談論風発で、笑ったり踊ったりしているかと思うと、きちんと九時に出勤しているんだから……」
 そこへ、黒背広に縞ズボンのきちんとした服装で瀬川雅夫が入って来た。日本のロシア語の代表的な専門家として瀬川雅夫も国賓だった。演劇専門の佐内満は十日ばかり前にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]からベルリンへ立ったというところだった。
「お早うございます。――いかがです? よくおやすみでしたか」
 秋山宇一は無産派の芸術家らしく、半白の長めな髪を総髪のような工合にかき上げている。瀬川雅夫は教授らしく髪をわけ、髭をたくわえている。それはいかにもめいめいのもっているその人らしさであった。その人らしいと云えば内海厚は、柔かい髪をぴったりと横幅のひろい額の上に梳《す》きつけて、黒ぶちのロイド眼鏡をかけているのだが、その髪と眼鏡と上唇のうすい表情とが、伸子に十九世紀のおしまい頃のロシアの大学生を思いおこさせた。内海厚自身、その感じが気に入っていなくはないらしかった。
 やがて五人の日本人はテーブルを囲んで、茶道具類とパン、バタなどをとりよせ、殆ど衣類は入っていない秋山の衣裳|箪笥《だんす》の棚にしまってあったゆうべののこりの、塩漬|胡瓜《きゅうり》やチーズ、赤いきれいなイクラなどで朝飯をはじめた。
「ロシアの人は昔からよくお茶をのむことが小説にも出て来ますが、来てみると、実際にのみたくなるから妙ですよ」
 瀬川雅夫がそう云った。
「日本でも信州あたりの人はよくお茶をのみますね――大体寒い地方は、そうじゃないですか」
 もち前の啓蒙的な口調で、秋山が答えている。
 うまい塩漬胡瓜をうす切れにしてバタをつけたパンに添えてたべながら
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