hアへ向けながら主婦が伸子に説明した。
「そのドアをお使いなすってもかまわないんですが、もし不用心だといけませんから、表から出入りしていただきたいと思います」
翌日、伸子たちはソコーリスキーというその家の表部屋へ移った。アストージェンカの界隈には馴れていたし、シーズンのはじまった芝居の往復にも、そこからは便利だった。ソコーリスキーでは食事つきの契約ができた。もうじき厳冬がはじまるモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、毎日正餐をたべに出ないでもすむのはのぞましい条件だった。
「アニュータの料理はわたしたちの自慢です」
耳飾をさげた細君のいうとおり、太ったアニュータのボルシチ(濃いスープ)やカツレツは、パッサージ・ホテルの脂ぎった料理よりはるかにうまかった。伸子たちにとってやや意外だったのは、正餐がソコーリスキーの夫婦といっしょなことだった。白いテーブル・クローズをかけ、デザート用の小サジまでとり揃えたテーブルで。
食後、細君はすぐ子供部屋へひっこんだ。
「われわれのところには、三つになる娘がいるんです。可愛い子です。二三日風邪気味でしてね……もっとも母親に云わせると、娘の健康状態はいつも重大な注意を要するんだそうですが」
どっちかというと蒼白いぬけめない顔の上に気のきいた黒い髭をたてて大柄でたるんだ細君よりずっと若く見えるソコーリスキーは、皮肉そうに本気にしない調子でそう云った。
「日本でも――概して母性というものは、驚歎に価しますか?」
食後のタバコをくゆらしていた素子が、そんな風にいうソコーリスキーの気分を見ぬいた辛辣さで、
「どこの国でも、雛鳥をもっている牝鶏にかなう猫はありませんよ」
と云った。
「なるほど! それが真実でしょうな」
皮ばりのディヴァンにふかくもたれこんで、よく手入れされたなめし革の長靴をはいた脚を高く組んでいたソコーリスキーは、
「さて」
と、ルバーシカのカフスの下で腕時計を見た。
「失礼します。こんやはまだ二つ委員会があるもんですから。――必要なことは、何でもアニュータに云いつけて下さい」
ルイバコフの家庭には、いかにも下級技師らしい生活の気分があり、正直と慾ふかさとがまじっていたが、飾りけがなく、そこで働いていたニューラの体からしめっぽい台所のにおいがしていた。ソコーリスキーの家庭の雰囲気には、上級官吏らしい艷のい
前へ
次へ
全873ページ中272ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング