フ監督たちは新しい映画の英雄のように見られてもいる。
 小柄な体としなやかなものごしをもって、柔軟の底に見かけより大きい気魄をこめている中館公一郎が、エイゼンシュタインの才能について多く云わないで、いきなりそのエイゼンシュタインに能力を発揮させているぐるりの諸条件につよい観察と分析とを向けていることが、伸子にとって新鮮な活気のある印象だった。中館公一郎がもちまえの腰のひくいやわらかな調子で、エイゼンシュタインは偉いですよ。そりゃたしかにすごい偉さなんでしょうけれどもね、というとき、彼の言葉のニュアンスのなかには、同じ仕事にたずさわるものに与えられている世間の定評に対する礼儀と、その礼儀をはねのけている芸術上の不屈さが感じられた。それは、伸子にも同感される感情だった。映画監督としての才能そのもので中館公一郎は、あながちエイゼンシュタインを別格のものとしているのではないらしかった。彼にとっては、エイゼンシュタインよりむしろソヴェトの映画製作そのもののやりかたが重大な関心事なのだった。ソヴ・キノのスタディオからかえったとき、素子が、
「あの棒はいい思いつきだったじゃありませんか」
と、云ったのに答えて中館は、
「棒をつかってみようとするところまでは、大体誰しも考えることなんじゃないのかな」
と云った。
「ただ棒のつかいかたね……そこのところですよ」
 つづいてドイツ映画の話も出た。伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たウファの『サラマンドル』という映画をみたことを話した。
「ユダヤ人の学者が迫害されて、外国へ逃げる話なんですけれどね、へこたれちゃった。その学者が深刻な表情をしてピアノをひくと、グランド・ピアノの上におそろしくロマンティックな荒磯の怒濤が現れるんですもの」
「ヤニングスみたいな俳優にしろ、もち味がいかにもドイツ的でしょう」
 中館の言葉を、素子が、かぶせて、
「でも、ヤニングスぐらいになれば相当なものさ」
と、ヤニングスの演技の迫力をほめた。
「リア・ド・プチとヤニングスのあの組み合わせなんか、認めていいものさ」
「中館さん、あなたにベルリンてところ、随分やくにたつの?」
 伸子がむき出しにきいた。
「そりゃあ……日本から行って役にたたないってところの方が少ないんじゃないかな」
「わたしには、ドイツの映画、なんだか分らないところがあるんです
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