A無意識な手つきでからのパイプを口に咥《くわ》えた。伸子は、窓の前をゆっくり行ったり来たりしはじめた。窓からは、広く暗いネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の面を越して対岸の街燈が淋しくまばらに見えている。
「立派な、人間らしい人たちの中に、それぞれの完全な性があるのは美しいことだわねえ」
素子の方へ背をむけて歩いていた伸子は、あこがれに小波だっているような調子でそう云ったとき、きいている素子がさっと上気したのを知らなかった。
「わたしも、ああいう風に咲き揃ってみたいと思うわ。――あの人たちのように……何て人間らしいんでしょう。咲きそろうって……」
でも、と伸子はすぐつづけて考えた。自分には、自分を咲き揃わせるどんな方法が現実にあるだろう。誰の真似でもなく、間に合わせでもなく、この自分が咲き揃うために。――ゴーリキイやアンナ・シーモヴァが生きて来て、自身を咲き揃わせた道は、それが心を魅する内容をもっていればいるほどその人たち固有のもので、伸子にそのままくりかえせるものでも、真似するすき間のあるものでもなかった。いつかまた窓ぎわに戻って、目に映るものをほんとには見ていない視線を、明るく照し出されている素子の顔の上におきながら、伸子は思いつづけた。人間の善意は大きく真面目で、その中で一人一人が自分の正直な意志や希望を生かしてゆくためには、何ときびしいその人ひとの道があるだろう。その道の前途は、伸子にとって空白だった。そのことが伸子に明白に意識されるばかりだった。伸子が口を開こうとした瞬間、
「ぶこ!」
低い迫るような素子の声が先をこした。
「なに考えてる――」
複雑なこころもちを云おうとしていたその出鼻をくじかれて、伸子は言葉につまった。
「――当てて見ようか」
素子のなめらかな小麦肌色の片頬に、不自然な片頬笑みがあらわれた。
「いままでぶこが考えなかったことを考えてる――ちがうかい?」
亢奮を強いて抑えているような素子の声音や凝視が、伸子を警戒させた。
「そうかしら……でも、どうして?」
「はぐらかさなくたっていいだろう」
そう云いながら、素子は椅子のなかで膝を組み重ねている体の重心をぐっと落すようにした。
「率直に云ったらどんなもんだい。いつだってぶこは正々堂々がすきなはずだったじゃないか」
まごつきをあらわしている伸子の顔を素子はくらいつくよう
前へ
次へ
全873ページ中208ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング