※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夫人の、奥歯をかみしめたまま顔に浮べているような渋い鈍重な笑顔とは比較にならないほど、酸っぱい渋い鋭い微笑であった。伸子は素子のその一瞬の複雑きわまる口もとの皺をとらえた。伸子は、この部屋に案内されてからはじめてほんものの微笑をうかべた。
 伸子たちのおくりものに対しても、夫人は、ごく短い一言ずつで、美しさをほめただけだった。ありがとうという言葉は夫人として云わない習慣らしかった。
 こういう贈呈の儀式がすむと、夫人は再び黙りこんだ。瀬川雅夫の言葉は自由でも、それを活用する自然なきっかけが明るい寒色の広間のどこにもなかった。三人は、そこで、会見は終ったものとしてそとに出た。
 ドアをしめるのを待ちかねたようにして、素子が、
「おっそろしく気づまりなんですね、文化連絡って、あんなものかい」
と、ひどくおこった調子で云った。
「どんなえらい女かしらないけれど、ありがとうぐらい云ったって、こけんにかかわりもしまいのに」
 瀬川はおどろいたように鼻の下の黒い髭を動かして、
「云いましたよ! ね、云ったでしょう?」
 並んで歩いている伸子をかえりみた。
「さあ……わたしは、ききませんでした。――いつも、ああいう人なの?」
「そうですか? 変だなあ、……云いませんでしたか。云ったとばかり思ったがな」
「――まるでお言葉をたまわる[#「お言葉をたまわる」に傍点]、みたいで、おそれいっちまうな」
 瀬川は、素子のその言葉は上の空にきいて、内心しきりに、夫人がありがとうと云わなかったというのが事実だったかどうか、思いかえしている風だった。
 そこへ、廊下のかどからノヴァミルスキーが出て来た。そして、うすい人参色のばさっとした眉毛の下から敏捷《びんしょう》な灰色の視線を動かして、夫人と会見を終って来た三人の表情をよみとろうとした。何か云いかけたがノヴァミルスキーは聰明にそれをのみこんでしまった。みんなは黙ったまま表玄関わきの、美人ゴルシュキナを中心に陽気にごたついている応接室へ戻った。

 |ВОКС《ヴオクス》の建物のあるマーラヤ・ニキーツカヤの通りを数丁先へ行ったところで、この通りは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を環状にとりまいている二本の大並木道の第一の並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》にぶつかった。遊歩
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