チかかっている。
ワフタンゴフ劇場の通りには、横丁が網目のように通じていた。或る日のおそい午後、伸子たち三人は、所書きをたどってその一つの横丁の、ひどく高い茶色の石壁のわきにある袋小路を入って行った。貸す室というのは、袋小路のなかの、ひどく燻《くす》ぶった煉瓦の二階建の家の地階にあった。階段わきの廊下に面しているドアをあけると、その建物の薄ぐらさと湿気とをひとところにあつめたような一室があった。どういうわけか、その室の二重窓ガラスの二枚が白ペンキで塗りつぶされていた。それは暗くしめっぽいその室に不具者のような印象を与えた。ガラスから外の見える部分には、ほんのすこしの間隔をおいて一本の楡の大木の幹と、すぐそのうしろの茶色の石壁が見えた。どこからも直射光線のさし込まないその室に佇んで、茶毛糸の肩かけで両方の腕をくるみこんでいる蒼白い女が、飢えたように輝く眼差しを伸子たちの上に据えながら、
「おのぞみなら、食事もおひきうけします」
と熱心に云った。
「料理にはいくらか心得がありますし……ここの市場はものが割合やすくて、種類もたっぷりあるんです……」
きれぎれな言葉で外套のどこかをひっぱるような貸し主の女のものの云いかたには、ほんとに部屋代を必要としている人間の訴えがこもっていた。その室にしばらく立っていると、この家のどこかにもう長いこと床についたままの病人がいて、見えないところからこの交渉へ神経をこらしているような感じだった。かりにこの室で我慢するとしても伸子たちが借りることの出来る寝台が一つしかなくて、補充する寝椅子も、そこにはなかった。
こういう風なところをあちこち歩いてホテルへかえると、小規模なパッサージの清潔さと設備の簡素な合理性とが改めて新鮮に感じられた。
「こうしてみると、住めるような部屋ってものは容易にないもんだね」
素子がタバコを深く吸いながら云った。
「いまのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で外国人に室をかそうとでもいうような者は、あの丸木小舎のかみさんのような因業な奴か、さもなけりゃ、きょうみたいな、気の毒ではあるがこっちの健康が心配だというような室しかもっていないような人しかないんだね」
伸子はじっと素子をみて、体のなかのどこかが疼くような表情をした。室さがしにあっちこっち歩いてみて、伸子はまだモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−
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