ェしている。
「さ! ぶこ! 下へ行ってコーヒーでものんで来よう。こんなにしていちゃ、しかたがない」
 素子は、伸子の両手をひっぱって、寝台からひきおこした。伸子は、すなおにされるままになった。
「着かえて来るから、その間に顔でもあらっておきなさい。いいかい?」
 伸子は浴室へはいって、水でゆっくり顔を洗って来た。そして、口紅のスティックを出そうとしてハンド・バッグをとりあげたら、その下から、さっき帳場でうけとって来たままだった紙片があらわれた。ああ、忘れていた、と伸子は思った。そして、フランス風の曲線的な書体で、大きく書かれている鉛筆の字をよんだ。
「ムシュウ・マスナガ。電話、エトワール2957――61。十時――十六時。」
 何のことだろう。マスナガ――増永――
「ああ、そうか!」
 いよいよ佐々のうちのものがマルセーユにつく日がわかったのだ。伸子は、こうしていられないという気になった。紙きれをもって、素子の部屋へはいって行った。
「ちょっと。いよいよよ。さっきの紙きれね、増永さんが連絡しろ、ということだったわ」
 伸子の顔の上に、開けようのわからないドアの前へ立たされた人のような表情があらわれた。



底本:「宮本百合子全集 第七巻」新日本出版社(第一部、第二部)
   1980(昭和55)年10月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
   「宮本百合子全集 第八巻」新日本出版社(第三部、資料)
   1980(昭和55)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十三巻」河出書房(第一部、第二部)
   1951(昭和26)年9月発行
   「宮本百合子全集 第十四巻」河出書房(第三部、資料)
   1951(昭和26)年11月発行
初出:「展望」筑摩書房
   第一部:1947(昭和22)年10月〜1948(昭和23)年8月号
   第二部:1948(昭和23)年9月〜1949(昭和24)年5月号
   第三部:1949(昭和24)年10月〜1950(昭和25)年12月号
      (1950年3月号は休載)
   資料:1949(昭和24)年8、9月号
※筑摩書房からはじめて単行本化されるに際して削除された、第三部のはじめの二回分を、このファイルには「資料」として
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