けはなされていて、内庭に面した側の室にいる娘はエリザベスとでもいう名でもあるのだろうか、西側の室の開けはなしたドア越しに、遠慮ない声で、
「ベス! あのひとのところへ電話をかけた?」
と云っているのがきこえて来たりした。あのひと、は男性で云われている。ベスとよばれた女の声が、平板に無味乾燥に、
「ええ《エア》」
と返事している。はなれたところからきいていると、それは、手紙をかくとか、物を縫おうとしているままで返事する声であった。無関心さがその声にあらわれている。あのひとに電話をかけた? という言葉からちょっとかきたてられそうになった伸子の好奇心がさまされた。伸子は部屋着のまま寝台の上にころがっている。揃えてのばしている爪先に力をいれてぐっと体をのばすと、赤坊がはだかにされたときそれをよろこび、膝小僧をひっこめて伸びをする、あんな風な気持よいこきざみなふるえが伸子の全身を走った。七月になろうとするパリの日盛り、空気は暑く灼けている。内庭にきこえている辻音楽師の自働オルガンの響。伸子は少しねむたい。精神も肉体も軟かく開放されてくつろいでいる。
 そのとき素子は、クリーム色地に水色とさっぱりした緑色の縞のパジャマ姿で、自分の室の窓から内庭の辻音楽師を見下していた。内庭をかこんだ建物の窓は大部分あいていて、その一つの窓から赤いブラウスを着た女が、いつかの夕方デュトへゆく途中で見たように、大きく窓から半身のり出させて、同じように内庭を見下している。辻音楽師はさっきから、もう三度もくりかえしてワルツだのタンゴだのを鳴らしていたのだった。どうしたのかどこの窓からも小銭を投げるものがない。素子は、自分が小銭をやろうかという気になった。テーブルの上においてあるハンド・バッグに目をやった。が、そのまままた内庭を見下した。年とった乞食音楽師は、古びたソフトをかぶって、ごみっぽいシャツの胸にダラリと赤いネクタイをたらし、忍耐づよく内庭のコンクリートへ目をおとしたまま、一本脚の上に立っているオールゴールのハンドルをまわしているのだった。
 素子には、七階の高いところから、井戸の底のように見える内庭に立っている一人の人物に向って、小銭を投げてやる[#「投げてやる」に傍点]、という動作に、不自然があった。猿にでも物をやるように、投げてやる[#「投げてやる」に傍点]。それができにくかった。
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