謔、とした。行先のきき間違いとわかったことは、伸子を安心させた。
 運転手は、あっち向きのまま、雨だれのような伸子の言葉を背中できいていたが、
「あなたは、デュトへ行くのかね」
 くるっと太い首をひねって伸子を見かえった。
「そう《ウイ》! そう《ウイ》!」
 坐り直してぐいとクラッチをふみながら、運転手は見えない唾をはくように悪態をついた。
「悪魔《チョルト》!」
 チョルト! それをききつけたとき伸子の顔があからんだ。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の「チョルト」! 自分にわかるロシア語。運転手は、偶然にもパリに沢山来ているという亡命ロシア人の一人だったのだ。伸子は、いきなり座席の上からのり出して、鳥打帽の運転手の縞背広の背中に向って喋り出した。
「多分、あなた、ロシア語がわかるでしょう。わたしはデュト街の五八番へ行かなければならないんです。病人があって、医者を迎えに行くんです」
 運転手は、伸子のいうことには、ひとことも返事しなかった。しかし、やがて止ったのは、見覚えのある磯崎の住居のがらんと四角くあけっぱなしの薄暗い入口だった。
 タクシーから降りながら、伸子はまたロシア語で云った。
「ここから医者のところまで、わたしは又タクシーにのるんだけれど、あなた、待っていていいなら待っていなさい。――まち賃は出す――どう?」
 運転手は、感情をあらわすまいとする無愛想さで、
「よろしい《ビアン》」
と云った。この白系ロシア人の運転手は自分ではフランス語しかつかわないのだった。
 磯崎でおそわったジャコブ街の角の「アメリカン・デンティスト」は日曜日でしまっていた。そこがだめだったらと、ドフィネの二〇番の五階に住んでいる芝村という日本人を紹介されていて、伸子はそこへも行った。日曜日の朝の九時すぎたばかりに、寝床にいる若い男のひとを起して歯医者のことをきくのは、伸子によくよくの思いだった。派手なパジャマ姿のそのひとは、
「弱ったなあ」
と、頭のうしろを掻いた。
「何しろ日曜ですからねえ」
 月曜になったら、何とでもするがということだった。月曜日になれば、その「アメリカン・デンティスト」も、日本の人の経営している歯医者もあくのだった。困りはてたその人は伸子とつれだって、サン・ラザールにあるアメリカン・デンティストの支店へ行ってくれた。そこにも、宿直の年よりが窓口
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