ェ動いていた。その自転車の横には短い脚立がしっかりとくくりつけてある。ハンドルのところから、いくつもペンキ壺がぶら下っている。労働用のベレーをかぶって、ブルーズを着た三十がらみの男は、歩道にくっついて鼻唄まじりにゆっくりペダルをふんでいたが、ちらりと伸子たちの日本語を小耳にはさんで顔をこっちへふり向けた。その顔の上に並木ごしの日光がおどる。
歩きながら、伸子の視線は折々、つれの若い画家の腕にだかれている子供にひかれた。昼飯どきの六月の歩道にあふれる人波の間で、マズレールが彼の白と黒との版画の中で、鋭く刺すようにきり出して見せている黒い山高帽の連中の、ずんぐりした黒服の肩と、強情で貪慾に重い眼ざしの林の間で、まだ若い父親の腕の上でじっとしている小さな子の白服の軽やかさは、思いがけない樹の幹にまだ羽根のしめっぽい稚い白い蝶々がとまっているのを見つけだしたときのような感情を伸子に抱かせるのだった。シャツの上から古びた緑色と茶色の縞ビロードのチョッキを着て、白い大前掛をかけた小僧が、人ごみの間をすりぬけながらすべるような歩きつきでわざと伸子に向ってまっすぐにやって来た。一歩のところで、小僧は巧みに両脚をくねらせて上目使いに伸子を見、身をかわし、通りすぎ、三歩ほどうしろで口笛を鳴した。
このモンパルナスをさかのぼって伸子たちは歩いて行っているのだった。人波が段々遠ざかった。広い歩道の灰色と新緑の調和が街すじの上に遠く見とおせるところへ出て来た。その辺で黒い山高帽はごくまばらになった。ショウ・ウィンドウを見ると、その内部の壺にミモサの花がふっさりと活けてあって、そこは額ぶちや絵具を売っていた。店さきに親しみぶかく新聞や雑誌をつるして、小さい書籍店もある。ステーションのまわりのモンパルナスが中どころ以下の取引の金銭でほこりっぽくされているとすれば、この辺は絵描きや文学者のモンパルナスだった。パリの黒い山高帽に象徴されている小市民のすべてのみみっちさ[#「みみっちさ」に傍点]と常識と金銭についての野心を軽蔑して生きようとしている人々のモンパルナスだった。
右側に大きいキャフェ・ラ・ロトンドがある。そのすこし先にやっぱり大きいキャフェ・ドームが歩道いっぱい日除けをつき出している。どちらもモンパルナスに集る芸術家や芸術愛好者たちの中心なのだそうだ。しかし、どういうわけか、この一二
前へ
次へ
全873ページ中814ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング