ワった人々は、伸子の賞讚によって賞讚されつくせない自分たちの歴史を生きて来ている。そしていまもそのつづきを生きつつあるのだった。こういう人々に向って、報告から日本の小説をかいて、十万部も印刷されるかもしれないモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]での自分。その考えには、伸子を生理的に嫌悪させる卑俗と空虚がある。伸子としては、ほとんど欺瞞と感じられるものがあった。
伸子は、考えの重さのために、われ知らず足音をしのばすような歩きつきで、ホテル・パッサージの階段をのぼり、ノックするのを忘れてそっと自分たちの部屋をあけた。
素子が、びくっとして、デスクからふり向いた。
「どうした、ぶこ!」
「どうしもしない」
幾日ぶりかで、素子が素子らしい顔と声とで伸子のそばへよって来た。
「ほんとに、どうもしないか?」
伸子は、合点した。
「ぶこ、バスなんかに轢《ひ》かれなや」
伸子はまた合点した。口をきいたら声がふるえて泣きそうだった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に、そろそろ白夜がはじまった。自分のするべきことは何だろう。思いつめて、伸子は、自分は日本へ帰るべきだ、と考えるようになった。素子とつれだって伸子がそこから出て来た日本ではなく、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の三年で、伸子に新しい意味をもって見られるようになって来た、その日本へ。それは佐々のうちのものの知らない日本であった。百万人の失業者があり、権力に抵抗して根気づよくたたかっている人々の集団のある日本へ、伸子は全くの新参として帰ろうと決心した。そこで伸子の生活はどんな関係の中におかれるか、それは伸子に何にもわからない。けれども、伸子が、三年の間に何かの成長をとげたことが確実ならば、伸子にとって、これまで知らなかった日本を生きて見ようと願う思いがあるのは真実だった。日本へ帰ることにした、という返事は、山上元をよろこばせないであろう。軽蔑される返事かもしれない。だけれども、伸子は、ほかにどんな答えも見出せなかった。伸子は、そこをはなれる可能を示されたとき、ひとしお深く日本の苦悩に愛着したのだった。もしかしたら自分の挫折があるかもしれないところ。もしかしたら自分がほろぼされてしまうかもしれないところ。しかし、そこに伸子の生活の現実がある。そして、伸子が心を傾けて歌おうと欲する生活
前へ
次へ
全873ページ中812ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング