ニ同じ時刻に前後して目をさまし、一つテーブルに向いあって茶をのみ、夜食のためにイクラや塩漬胡瓜を買いに出るのは、やっぱり伸子の役だった。
伸子のデスクの上に、ネチャエフの伝記がおかれた。素子は、ちょいと粗末なその古い本を手にとってみて、
「へえ」
と云った。
「こんな本、どうするのさ」
「その中から一部分を訳すってわけ」
「なるほどね、早速テストってわけか」
当惑げな伸子を素子は皮肉な目で見て、棗《なつめ》形の彼女の顔をうっすりあからめた。
「まあせいぜい奮励しなさい」
伸子の語学のおぼつかなさを、素子は知りすぎるくらい知っているのだった。
ネチャエフの伝記は、幼年時代の彼の生いたちから物語られていた。彼が|人民の意志《ナロードノ・ヴォレツ》党員として従事した活動の詳細。スパイの発見とその処分。逮捕。ペテロパヴロフスク要塞における彼の生活。法廷におけるネチャエフのたたかい。伸子は、山上元が、この伝記のどの部分をとはっきり指示しないで、伸子に翻訳をたのんだことに困った。山上元は、どこを、日本のインテリゲンツィアによませなければならないと考えたのだろうか。
机の前で、全巻の小見出しをしらべながら、伸子は、素子の皮肉な言葉が当っているのかもしれないと思った。伸子が、日本の読者のために果して適切な一章を選ぶかどうかということは、伸子の政治的な理解力とその実際の分別を示すのだから。
そうだったとしても、伸子は、山上元のそういうやりかたにずるさだの人のわるさだのを感じることは出来なかった。そういうことはどうであれ、自分に与えられた新しい仕事を力いっぱい果すこと。それだけが義務だと伸子は考えた。
長い時間しらべた上、伸子はネチャエフの法廷での陳述の部分だけを訳すことにきめた。その部分だけでも、伸子がつかっている半ペラの原稿紙で四五十枚になりそうな分量だった。
法廷の用語、法律上の言葉。そうでなくても伸子の知らない実におびただしい数の言葉。そしてわら半紙のような用紙に印刷されている字体は古風で、パンフレットをよみなれている伸子をおびやかす。
右手にもっているペンよりも、左手で辞書をめくる時間の方が多かった。伸子は、ほんの一句ごとに、ぽつり、ぽつりと日本語へ書き直して行った。――被告ネチャエフが出廷した。彼は被告席についた。裁判長は彼の姓名、出生年月、家庭の状況につ
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