]フの店だったところが外交団専用の食糧品店になっている。そのすこし先の右手に、ホテル・リュックスがある。約束の時間きっちりに伸子はその入口のガラス戸を押して、大理石のしきつめられた奥ゆきのあるホールへ歩みこんだ。
 ホールは人影がない。両側の大理石の腰羽目の上に張られている鏡の上に、伸子は自分の姿を映されながら、つきあたりにデスクをひかえている受付に、旅券をわたした。小さい紙に自分の姓名と、会おうとしている山上元の名をかいた。受付の男の眼つきは、落ちついていて、しかし見たものはよく記憶することができるという眼つきだった。
 多勢の人がその中に住んでいる建物の内廊下は、どちらかというと光線が不足で、近くに食堂があるのかあったまっている空気に煮えているシチ(キャベジ入スープ)のにおいがした。人々が忙しそうに行き交う廊下をとおって、アルミニュームの鍋をはこんでゆく婦人がある。事務的であるが家庭的でもあるような雰囲気を、伸子はものめずらしく感じた。リュックスには、国際共産党関係の人たちばかり住んでいるはずだった。コミンターンという名から伸子がうけて来ているいかめしい感じは、廊下にまでただよっているシチのにおいで、ひどく人間ぽいものにされた。
 肩の力が和らげられた気分で、伸子は大廊下を左に曲り、一層光線の足りないわき廊下に向って、しまっている両開きの大扉の上を見ながら進んだ。白いペンキでドアの上にじかに318と書かれている。そこが山上元の室であるはずだった。
 伸子は、割合力を入れてノックした。
「おい」
 そんなような返事がした。さっき電話できいた山上の声であった。伸子は、ドアをすこし開き、室内の見えない位置に自分をおいたまま、
「入ってもようございますか」
「おはいり」
 古びた、大きな、ごたついた室の右手のデスクで山上元はタイプライターをうっているところだった。
「もうじきすむから、そこへかけて待っていなさい。――どうせ、いそぎゃしないんだろう?」
 その云いかたは、どこかいっこく[#「いっこく」に傍点]らしく「自伝」で伸子が感じている率直な親しさがあった。
「どうぞ、ごゆっくり。いそがないから」
 イタリー風の出窓とよばれる三面ガラスのひろい出窓のよこに、白布のかかった角テーブルがあり、その奥の壁につくりつけて二人がけの長腰かけがある。伸子は、その隅っこへ自分をおち
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