フ「南京虫」の初演があった。
 五〇年後の社会主義の社会では、現在のソヴェト生活の日常につきもののようなわずらわしい南京虫、すなわち官僚主義だの、小市民根性だの、陰謀、利己心だのというあらゆる「害虫」は絶滅されて、わずか一匹の「南京虫」が過去の時代の記念物として、社会主義動物園に飼育されている。段々教室に腰かけた五〇年後の社会主義的青年男女学生は、合唱風におどろいたり、ふき出したり、罵ったりしながら、珍奇で醜悪な過去の棲息物を観察するという舞台だった。
「南京虫」の第四場までは一九二九年現在の反社会主義への諷刺的な場面であり、第五場からが五〇年後の社会主義社会での場面ということになっている。
 舞台へ、巨大なつくりものの「南京虫」が大警戒のもとに運搬されて来る。
「南京虫」は大衆の現実のなかで珍しい棲息物であるどころか、云ってみれば、しらみ[#「しらみ」に傍点]と同じ日常の虫だから、スターリングラードのホテルの寝台で伸子をおちおち眠らさなかったぐらいのものだから、五〇年後の社会ではその虫が、たった一匹保存標本として存在しているというような仮定そのものが、観客を笑わせずにおかないのだった。南京虫をきわめて有害なものとして、警戒するおかしみ。その虫のいかがわしい習性についてことこまかに説明する博物教師の科白《せりふ》の諷刺的なおもしろさ。
 メイエルホリドの機智とマヤコフスキーの言葉の魔術は、この舞台にもおしみなく発揮された。そして「南京虫」の一場一場は、機械的にわりきられた明快さと、観客の哄笑のうちにすすんでゆくのだった。
 伸子と素子とは、ときどき大波のように場内をゆすぶる笑声の中に漂いながら、或いは笑いの波をかいくぐりながら、奇妙なものうさを制しきれなかった。観客の笑いそのものが、伸子に苦しかった。その晩、メイエルホリドの観客席は、まるで笑いのためにそこに来ていて、爆笑を準備しているようだった。ある諷刺的な科白や場面へ来ると、待ちかねていたように、どっと笑った。しかしその数百の笑いは、笑いどよめくという風なたちの笑いかたではなくてどっと笑ってしまうと、それっきりぷつんと笑いの尾はきれてしまう、余韻のない笑いかただった。人生のユーモアがあって、思わず笑う心の笑いではなくて、伸子が感じるままに云えば、それは五ヵ年計画というものによって示される神経反射の一つのようだった
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