ワす折に。私は一所懸命元気であろうとして居ります。彼の良心を思えば、私は最善の生きかたをしずに居られません。
 ――四月と云えば、日本で多数の共産主義者が検挙された四・一六事件のことであった。伸子はパリでちょっと、そのことをきいた。日本の新聞は、事件から七ヵ月も経った十一月二十日すぎに記事解禁になって、伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰って来てから、きのう素子の本棚の下から引き出した新聞でよんだ。
 蕗子の弟は、伸子たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てから後、上京して、姉と暮しながら研究所へ通って洋画の勉強をしていた模様だ。蕗子は、伸子を共通な悲しみの先輩として語っている。しかし、蕗子の切なさは、伸子の経験よりも深い独特なものだと考えられた。保は、絶対の真理とか、絶対の善・公平さという存在し得ないものを求めて、敗北した。保は、主観的にはげしく真実を求めながら、現実の生活の中では自分の絶対[#「絶対」に傍点]のとりでに立てこもって歴史の流れに抵抗し、破れたところがある。蕗子の弟である若い画学生の生きかたとその苦悩は、彼女の手紙によれば、保とは全く反対のように思えた。その青年は、プロレタリア芸術の必然を認めた。しかしそこにある理論と芸術作品の実際に納得しきれないものを発見して、その否定面をのりこせない自分を歴史にとって無価値な者として一図に死なしてしまったのだった。
 蕗子の手紙は、計らずも伸子に一つの記憶をよびさました。一九二三年の初夏、進歩的な人道主義作家として知られていた武島裕吉が軽井沢で自殺した事件があった。武島家の所有であった北海道の大農場を農民に解放したりしたその作家が苦しんで、破滅した自身の内と外との複雑な矛盾は、個性的なものでもあったが同時に、そのころの日本を風靡していた社会思想と無産者文学理論の素朴さからのもつれもあった。武島裕吉は、ある婦人との死によって、その錯雑から逃れたのだった。武島裕吉に弟がいくたりかあって、その一人が文学者だった。その文学者である弟を中心として武島裕吉を回想する座談会がもたれた席上、弟である作家が、こんな意味のことを云った。兄貴も、もう一年がんばり通せば、死のうとなんか思わなくなったにちがいないんだ。あの震災を通れば、死のうとなんか思わなくなったにちがいないんだ、と。ある文芸雑誌でその
前へ 次へ
全873ページ中718ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング