カゃないのかしら」
 素子もそれとなく注目して、双方から次第に近づき、ごく間近のところを互に反対の方向へすれちがった。伸子も素子も、その二人の人たちが大ロシア人でないことをたしかめただけだった。中国人か朝鮮のひとか、蒙古の若い男たちか、その区別さえもはっきりしなかった。もし日本人であったとすれば、その人たちの方からまぎれない日本女である伸子たちを見つけて、話すのをやめ、漠然と「東洋の顔」になってすれちがって行ったのにちがいなかった。
 もう一度、トゥウェルスカヤの通りでも、それに似たことがあった。そのときも、さきは二人づれだった。愉快そうに喋りながら来る、その口もとが、遠目に、いかにも日本語が話されている感じだった。が、とある食料品店の前の人ごみで、ほとんど肩をくっつけるようにしてすれちがったとき、その人たちが、日本人だと云い切る特徴を伸子は発見しなかった。伸子は、それらのことを思い出した。
「それだもの、ああいう女がまちがえたって、云わば無理もないわよ」
「そりゃ、ただ区別がわからないだけなら仕様がないさ。日本人だって、西洋人の国籍が見わけられるものはろくにいやしないんだから。……バカにしやがるから、癪《しゃく》にさわるのさ。いつだってきまっているじゃないか、ホージャに、キタヤンキ。――日本人扱いをした奴が一人だっているかい」
「…………」
 キタヤンカ――(支那女)伸子は、その言葉をしずかにかみしめているうちに、この間、ホテル・メトロポリタンの薄暗い、がらんとした妙な室で会ったリン博士を思い出した。あのひとこそ、正銘の中国の女、キタヤンカであった。けれども、あのものごしの沈厚な、まなざしの美しいひとが、もの売をねぎっているわきからキタヤンカと、素子がからかわれたようなからかわれかたをしたことがあるだろうか。伸子からみると公平に云って素子には、何となしひとにからかいたい気持をおこさせるところがあるように思えた。
 素子は、タバコの灰をおとすときだけ灰皿のおいてある机のところへよるだけで、いかにも不愉快そうに室の内を歩きまわっている。段々おちついた伸子の心に、いきなりぶったあげく逃げ出した卑怯な二人の女のかっこうが、苦々しくまた滑稽に見えて来た。
「――あなたって、不思議ねえ」
 柔和になった伸子の声に、素子の視線がやわらいだ。
「どうしてさ」
「だって――あなたは
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