Bケースには、パリ、ロンドン間の飛行機でとんだときの赤と白とのしゃれたラベルが貼られている。
「ね、わたしたちは、ぎりぎりまでお互を知りあったのよ、それはそう思えるでしょう? そして、わたしはもうモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰る時だということが、はっきりしたんだわ――惰勢で、お互を妙なところへ引きずりこむなんて――それは、わたし、したくないの」
「そうだ、きみは――そうなんだ」
二人の間に荷づくり仕事のごたごたをおいて、伸子と蜂谷とが床の上にかがんだり、椅子においたトランクの前に立ったりしてそういう会話をとりかわしたのは、夜なかの二時すぎであった。ベルネの家族たちはねしずまり、少くとも寝しずまっているように見え、あけはなしたドアから明るい燈の流れ出しているのは伸子の室だけだった。
伸子と蜂谷は、そうして夜明しした。伸子は意識して、夜なかじゅうくつろぐ空気をつくらなかった。朝早く北停車場から出発するベルリン行列車の車室はうす暗い、そのうすら寒さとうす暗さの裡で、蜂谷良作はしびれるようにきつく、外套の上から伸子の腕をつかんだ。
「佐々さん!――最後なんだから――少くとも僕にとって、これが最後なんだから……」
蜂谷との間にそういう機会をもつようになってはじめて、素直に、自発的に、伸子は蜂谷の顔を両手の間にはさんで接吻した。彼と自分とのために、いい生活の願いをこめて。クラマールの生活で二人が経験したことの中に、蜂谷を軽蔑し、伸子自身を軽蔑すべき何があったろう。二人はそれぞれに、これまで知らなかった男と女とを知り、そのように存在する男である自分、女である自分を見出した。微妙で、はげしく、限界のきまっていない男と女のひきあいの間で、伸子と蜂谷とは、きわどく近づき、またはなれ、舞踊のように自身をためしながら格闘した。その格闘は、ひきわけに終りつつある。格闘のなかには、幾世紀もの間、男と女とが互の上にくりかえして来た征服の意欲とはちがった互格のはりあいがあり、それは何かの新しい意味をもっている。結論として、伸子が、断然モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ向って出発するという形をとって表現されるような。――
「じゃ、ほんとうに、さようなら。いろいろありがとう、よく暮しましょう、ね。きっと、ね」
伸子の言葉を縫って発車のベルが響いた。蜂谷は、うめくよ
前へ
次へ
全873ページ中704ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング