驍フだった。
 去年の冬もおそらくここでこんなにして、柴垣は、自分の誕生を待っていたのではなかったろうか。ほとんどすべてのひとはしばしば行動的に考える。だけれども、ほとんどすべての人が考えるように行動的には行動しない。――いまこの亀田のアトリエのはてしない雑談にまじっている自分に、伸子はそれを感じるのだった。
「ああこりゃうまい!」
 パステルの研究をしているというひとが、亀田の細君のコーヒーの腕前をほめた。
「これだけにのませるところは、少くともここいらにはないだろう」
「実のところ万更《まんざら》自信がなくもありませんのよ。かえりましたら、いずれ店を出すことになりましょうから、どうぞよろしく」
「――うまい、で思い出したが、気がすこしどうにかなると、女の手がうまそうに見えるものだろうかね」
 柴垣が、もちまえのポーズをくずさず云った。
「耳が気になったという例は、美術史にある」
「ゴッホだろう? 俺の話は手なんだ、女の手なんだ」
「くった奴があるのか」
 みんなが笑い出した。
「都久井俊吉、ね」
 それはひろく知られている作家の名であった。
「あのひとが、すこし頭の調子をおかしくしたときのことだがね、何しろ普通の病人じゃないから、家のひとも医者も、ひととおりならない苦心なんだ。本人を不安にしたり絶望させたりしないために、すこし強度の神経衰弱ということにして、静養が第一、まあ、おなかをすかせないようにするんですな、って云ったんだな。だもんだから、先生ひとすじに、おなかがすいたらもう駄目だと思いこんでしまったわけなんだ。いま食べたばっかりだのに、すきやしまいかと心配になると、たしかに空いて来た気がするんだ」
 伸子はその話に耳をすまさせられた。そのひとの作品を知っている伸子には、彼が医者のいうことをひとすじに信じた、ということもうなずけるのだった。
 その都久井をつれて、家族のひとと彼とが箱根へ行く途中、小田原へ降りた駅の前で、いつの間にか、都久井の姿を見うしなった。どこをさがしても見当らない。あわてていると、そのあたりに客待ちしている俥夫が、旦那、なんですかい、帽子をかぶってない、ちょいと変った旦那をさがしているんじゃないんですか、ときいた。
「うんそうだ、ってわけさ。きいてみるとたった今その俥夫が、待合へおともしたっていうんだ。じゃあ、そこへ行こうってわけで、行
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