オょう?」
「もっていない」
 それは、ソヴェト同盟の三〇カペイキの郵便切手だった。さっぱりした長方形の水色地に、アジアとヨーロッパの地図が白く出ていて、そこに地球の六分の一を占めるソヴェト同盟の全領域が、いきいきと目にとびついて来るように鮮やかな赤で刷り出されているものだった。
「こういうものまで持って旅行しているのかな」
「これはほんとに気に入っているの。だからペン箱に入れてもっているんです」
 小さい美しい一枚の切手を見ている蜂谷の顔は大きく見え、それをのせている手のひらも大きく見えた。
「ちょっとみてもきれいでしょう? よく見るともっといいのよ。こまかいところまで、ほんとの地図よ」
「なるほど、こんなところの、でこぼこも、ちゃんと出ている」
 中国の海岸線の部分を、蜂谷良作はそこを実際に知っているものの興味を示して検査した。その切手にあらわされているヨーロッパの東の部分から先にあるフランスはぬけているのだった。
「日本よ、お前は海にはられた一本の弦《つる》。どっちから風が吹いても、鳴らずにいられない。――ほんとにそう思うでしょう?」
 伸子は、また紙の中にしまわれてしまう前に、往来に立止って、蜂谷良作の手の上にのせられているそのきれいな切手をのぞきこんだ。

        六

 伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から思いがけない手紙をうけとった。佐々の一行は、予定どおり十月二十七日の朝、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ到着した。電報でその時刻を知らされていた素子が、停車場へ出迎えた。そして、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を通過する旅客がそうするように、その日の夜シベリア鉄道にのりつぐまでの時をすごすために佐々一行を、大使館へ案内しようとした。ぶこちゃんの予定も、そんな風に云ってよこしていたから、と素子はその手紙に書いているのだった。ところが停車場にはどういう手筈《てはず》になっていたのか、素子のほかに大使館づき陸軍武官の藤原威夫が来た。
 国際列車が北停車場《セーベルヌイ・ボクザール》のプラットフォームにとまると、背広を着た陸軍少佐の藤原威夫は素子の先にたって、佐々一行の乗っている車室を見つけ、手まわりの荷物の世話をやき、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では数が少くてつかまえるのに困難なタクシーまで
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