リン博士の言葉は、しずかで、柔らかくて、心にしみる響があった。伸子は、自分が、リン博士との話の間で、はじめからしまいまで、わたし、わたし、とばかり云っていたことに気づき、自分というものの存在のせまさが急に意識された。そして伸子は、はずかしさを感じた。
 けれどもリン博士は、きいている伸子のこころがそんなに激しく動かされたことに心づかなかったらしく窓の外の雪の宵景色を眺めたまま、
「中国の民衆には、大きい、巨大と云ってもいいくらいの可能がかくされています――男にも、もちろん女にも。――ところが中国の人々は、まだその可能性を自覚しないばかりか、それを自覚する必要さえ理解していないんです」
 ふっと、情愛のこもった笑顔を伸子に向けて、リン博士は、
「あなた、孫逸仙大学の女学生たちを見ましたか?」
ときいた。
「あの娘たち――みんなほんとに若くて、未熟でさえあるけれど、熱意にあふれているんです。――可愛い娘たち――そう思いませんか?」
 その Don't you think so?(そう思いませんか)というききかたには、どんなひとも抵抗できないあたたかさと、思いやりとがこもっている。ほんとに、黒い髪をしたあの娘たちは、国へかえって中国の人々の自由のためにたたかって、いつまで生きていられるだろう。伸子は彼女たちの生活を厳粛に思いやった。リン博士の声には、短く、熱烈な若い命を限りなく評価する響があった。

 ホテル・メトロポリタンのうすよごれた暗い裏階段から、伸子はアーク燈に照らされている雪の街路へ出た。リン博士との会見は不得要領に終ったようでありながら、伸子のこころに、これまで知らなかった人の姿を刻みつけた。リン博士のすんなりとした胸のなかには、そこをひらくと深い愛につつまれながら幾百幾千の中国の人々が、黒いおかっぱを肩に垂らした女学生もこめて、生きている。それにくらべて、自分の白いブラウスの胸をさいて見たとして、そこから何が出て来るというのだろう。先ず、わたし。それから佃や動坂の一家列。――しかもそれが、幾百幾千の人々の運命と、どうつながっているというのだろう。伸子は、防寒靴の底にキシキシと軋《きし》んで雪の鳴る道を、足早に追いこしてゆくどっさりの通行人の間にまじりながら、小さい黒外套の姿で歩いて行った。

        五

 一月にはいると、モスク※[#濁点付き
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