ウぐりに階段をのぼってゆく伸子にしみとおった。ペレールで見た電報が信じられないような感じにとらえられた。
伸子は息をつめて、磯崎の室のドアをノックした。無言のまま、すぐ扉があいた。廊下に立っている伸子を見て、ドアをあけた見知らない日本の男のひとは、
「ああどうも」
と、あいまいに云って頭を下げ、体をひいて伸子を、室内に入れた。
年配のまちまちな四五人の日本の男のひとたちが、いつものとおり無装飾なその室の長椅子のところにいた。伸子は何と云っていいかわからず、だまってそこにいる人々に頭を下げた。
「奥さんはあっちに居られますから――どうぞ」
伸子は、丁寧なものごしで示された隣りの寝室の方へ歩いて行った。両開きのフレンチ・ドアのかたそでだけが開け放されている。足音をころしてその敷居のところへ立ちどまったとき伸子のひとめに見えた。ひろい寝室のむこうの壁につけておかれている寝台と、その上に横わっている磯崎恭介、わきの椅子にきちんとかけて、濃いおかっぱの頭をうなだれている須美子の黒い服の姿。――人の気配で須美子は頭をあげた。伸子を認めた瞬間、須美子の黒いすらりとした姿が椅子から立ち上ると同時に、はげしく前後にゆれた。伸子は思わずかけよった。
「佐々さん」
繊《ほそ》くて冷えきった須美子の指が、万力《まんりき》のように伸子の手をしめつけた。
「よく来て下さいました」
「ごめんなさい。電報、やっとさっき拝見したもんだから」
伸子は、ささやいた。
壁ぎわのベッドの上によこたえられている磯崎恭介の眠りをさますまいとするように。
「パリにいらっしゃりさえすればきっと、来て下さると思いましたわ。佐々さん。わたしも、こんどという、こんどは……」
伸子の左肩の上に顔をふせた須美子の全身がわなわなとふるえた。伸子は両手でしっかり須美子を抱きしめた。須美子は、けさから、どんなにこうしてすがりつける者をもとめていたか。それを、身がきざまれるように伸子は感じた。ついこの六月下旬に、須美子は田舎にあずけていた上の子供に死なれたばかりだのに。
「なんていうことなんでしょう!」
須美子の上にかさなる悲しみに対していきどおるように伸子が云った。
「歯です」
「――歯?」
「おととい、急に奥歯がひどく痛むって、お医者さまへ行きましたの。抜いたんです。そこから黴菌《ばいきん》が入ったんです」
「…
前へ
次へ
全873ページ中572ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング