エへ下りて、樫の枝まで戻るのだった。
泰造と伸子は、おもしろくその光景を眺めながら遠くに佇んでいた。
「こういうところがイギリスだねえ」
泰造の声には、羨しさがこもった。
「どこへ行っても大戦後は変ったというし、また事実かわってもいるが、やっぱり|同じ昔のイギリスの樫《セーム・オールド・イングリッシュ・オーク》はそのままだ」
なお草原にじっと立って、幾度目かに栗鼠が掌の南京豆に向っておりて来るのを待っている老人から歩き去りながら、泰造が伸子にきいた。
「伸子、きのうパスポート(旅券)の査証をし直しに行ったのかい?」
「ええ。どうして?」
「ホテルのカウンタアで昨夜注意してよこしたから……お前の旅券は、イギリス滞在に期限つきだったんだね。知らなかった」
クロイドンの旅券査証所は飛行機から降りて来た伸子の旅券に「三週間を越えざるイギリス滞在を許可する」と書いてスタンプを押したのだった。
「お父様たちのは、どう? 無期限でした?」
「もちろんそうだよ」
それが、当然であり、伸子が期限つきの入国許可をうけているというようなことは、泰造として心外であり、傷つけられることでさえもある。父としてのそのこころもちと心配が伸子を見る目の中によみとられた。
「どういうわけなんだね、それは」
「たいした意味はないでしょうと思うわ。わたしはお父様たちのようにパリから来ているのじゃなくて、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から来ているわけでしょう? イギリスとソヴェトとは一九二六年に国交断絶したまんまなのよ、いまのところ。だから、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から来たものは、日本人だから入国はさせるようなものの、ちょいと期限をつけておきたいんじゃないの」
「それだけの理由かね?」
「ほかに何かあるとお思いになる?」
泰造はだまった。伸子は直感するのだった。期限つきの旅券のことから、泰造はまた伸子の「思想」について気にしているのだ、と。泰造の感情に、また赤インクのかぎが、あらわれそうになっているのだ、と。
「お父様、ほんとに心配なさらないで頂戴《ちょうだい》――。どこをさがしたって、わたしにはそれよりほかの理由はなくてよ」
「それならいいがね――しかし……」
泰造は、ソフトをぬいで、重い、禿げた頭を曰くありげにふった。伸子は、泰造を安心させるために云った。
前へ
次へ
全873ページ中552ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング