髓n図は、泰造の、昔なつかしいロンドン案内とはちがっていた。伸子のロンドン地図では一八五〇年代のある陰気な雨の日に、一つの情景が描き出されていた。それは、大英博物館から遠くないとある街の歩道の上の光景だった。歩道へは、一軒の家の家主から追い立てをくって、放り出された家財がつまれ、そのわきに赤坊を抱いた気品のある細君と三人の子供と忠実そうな年とった召使いが、途方にくれた様子でたたずんでいる。この家族には、行く先がないのだ。しかし、かけ[#「かけ」に傍点]のたまっていた薬屋、パン屋、肉屋、牛乳屋は、家主からこの家族が追い立てをくったと知るが早いか、集って来て、借金のかたに子供寝台まで差押えている。こうして二百人もの弥次馬に囲まれていたのは、イエニー・マルクス夫人とその子供たちだった。伸子のロンドンには、このほかに一九〇三年に描かれた一枚の小さい地図もやきつけになっている。地図をかいた男は、やがてレーニンという名で知られるようになったロシアの亡命革命家ウリヤーノフである。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の革命博物館のレーニンに関する特別陳列室の壁に飾られているその小さい地図を、伸子は、どんなにしげしげと眺めたろう。親切に、注意ぶかくかかれているこの一葉の地図を目あてにロシアから秘密に国境を越えてロンドンへ集って来た人々による社会労働民主党の第二回大会で、プレハーノフ、マルトフたちのメンシェヴィキ(少数派)とレーニンを指導者とするボルシェヴィキ(多数派)にわかれた。きょう、ロンドンのコヴェント・ガーデンがロンドン最大の青果市場であるというだけでなく、そこに「労働者の生活」の発行所があり、イギリス共産党があるということを伸子が知っているのは、伸子としての自然であった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から出発して来て、ワルシャワの陰惨なメーデーに遭い、「ヨーロッパ方式」での民主都市とめずらしがられているウィーンの模型じみた舞台をとおって、ベルリンで伸子が消えない印象を与えられたのは、カール・リープクネヒト館前の広場のいくところにも、白い輪じるしを記念にのこしている労働者殺戮のあとであった。日本から毒ガス研究のために派遣されている津山進治郎の思想の上にてりかえしている、ドイツの再武装、ファシズムの進行はあからさまだった。このパリからロンドンへ向おうとする伸
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