本を買うことの出来るような金をやってない。瑛子はそのことを、瞬間に母親らしい押しのつよさで頭へ閃めかせながら、
「何故そんなことおっしゃるの」
やっぱり厭そうに云った。
「何故ってこともないが……」
瑛子はテーブルの下で焦立ったように足袋の爪先をうごかしながらきつい調子で云った。
「順二郎の本を見ていただきにあなたと来ているのに、どこがわるいんです」
それきり二人とも黙ってしまった。或る意味では共通な嫌悪をもって感じている者の名が出たために、黙っている間も二人の心持は一層見えない力で近づけられるようでもある。田沢がやや暫くして訊いた。
「きょうは、おかえりですか」
「さあ……」
「これっきりでかえるのはつまらない」
タバコをもたない方の片腕をまわして自分の胸をかかえ込むような恰好をしながら田沢が圧しつけた声で云った。
「どっかへ行きましょう」
瑛子の頬に血の色が微かにのぼった。
「…………」
「ね」
「…………」
四辺の静けさ。乾いた書籍の紙や印刷インクからしみ出して空気を満している軽い刺戟性の匂い。質のよい石炭に焔が燃えついたような燦きが瑛子の目の裡に現れた。その目を彼女はがんこに田沢の顔からそらしている。豊かな頬から顎へかけて、激しい内心の動揺が、憤ったような表情を見せた。それは濃い、激しい、香の高いはりつめられた期待とそれへの抵抗である。瑛子は、いきなり身じろぎをして、特徴のあるせきばらいをすると、真面目な、やはりおこっているようなところのある声で、
「御勘定を――」
と云った。
再び人のかたまっている雑誌の台の横をぬけて階段にさしかかった。瑛子は一段一段と自分の重さにひかれるように降りてゆく。その肩に自分の肩をすり合わせてゆっくり、ゆっくり降りながら、正面を向いたなり田沢が、
「ああ、このまんまどっかへ行っちまいたい」
と囁いた。
「――行きましょう」
「…………」
「行きましょう」
「…………」
階下の通路を真直に抜けて、彼等は店の外へ出て行った。
四
いまどき余り見かけない束髪にその女客が髪をあげていたばかりでなく、何か印象にのこる余韻をひいていた二人連が去ってから、みほ子は暫くガラス・ケースの奥に立ってぼんやりと外の方を眺めていた。
向いあって売場のある下着類のところから、同じように水色メリンスの事務服をきた時江
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