同志小林多喜二の業績
――作品を中心として――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)[#地付き]〔一九三三年三月〕
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同志小林多喜二は、日本のプロレタリア文学運動において、実に類のすくない一人の傑出した世界的作家であった。
小説は、小樽で銀行に勤めていた時分から書きはじめていたが、その時分から同志小林の作品は、はっきり勤労階級の生活の中に根をおろし、勤労階級の生活の苦痛と、その苦痛の社会的原因をあばき出そうとする努力に向けられていた。
初期のいくつかの短篇は、この社会で勤労階級の男や女が闘って行かねばならない、不合理な資本主義社会に対する人道主義的な憤りを示したものである。
一九二八年に、北海道における三・一五事件で、革命的労働者が大検挙され、野蛮なテロによって組織を破壊された。同志小林多喜二は当時支配階級が革命的労働者に対して行った非道な白テロを曝露し、革命の犠牲と挫けぬ意気とを「一九二八年三月十五日」という作品にもり上げた。
この一作で、同志小林多喜二のプロレタリア作家としての方向が決ったといえる。
続いて、有名な「蟹工船」が書かれ、「不在地主」「工場細胞」「オルグ」「独房」「転形期の人々」「沼尻村」と精力的に作品が送り出されたが、我々が特別注目し又感歎するのは、同志小林多喜二が一つの作品から一つの作品へと常に前進しつづけたプロレタリア作家としての努力、覚悟についてである。
日本のプロレタリア全運動は一九二九年以来、急速に進展している。プロレタリア文学もその進展を共にし、プロレタリアートの課題を自身の課題としてジリジリ押しすすんで来ているのだが、同志小林多喜二ほど全面的にプロレタリアートの課題をわが身に引きそえて、作品に具体化しようと試みたプロレタリア作家はなかったといえる。
同志小林多喜二の作品で全くの駄作というようなものは殆どなかった。よしんば或る作品において間違いがあったとしても同志小林多喜二にあっては、決して日和見主義や引こみ思案や「作家主義」から出たことはない。きっとそれは今まで欠けていた新しい闘争の具体性をプロレタリア文学の中に摂取しようとする雄々しい意志からされたものであり、間違いは捕えた問題を十分マルクス・レーニン的方法で発展させ得なかった場
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