かを明かにしようとしたものであった。
要するに、同志小林に関するこれまでの評価はひとしく尊敬をもってなされているとはいえ、そのあるものに若干の誤謬、不正確な認識などがふくまれていることも否めない事実である。
この際、同志小林多喜二の業績の評価に当って基準となるべき諸点を概括し、それによって、誤謬を含む見解を正すとともに、評価を統一することは、わが「コップ」中央協議会の責務の一つであると信じる。プロレタリア文化・文学運動の今後の正しい発展は、栄誉ある前衛、同志小林の業績のまじめな評価とその成果のボルシェヴィキ的摂取なしには全くあり得ないからである。
同志小林多喜二が、日本においてたぐいまれな国際的規模をもつ共産主義作家であったこと、同志小林が常に全力的であり、前進的であり、創作のために寸暇を惜んで刻苦したことは、彼に関する最も断片的な追想の中にさえ読まれた。
貧農の息子、搾取と抑圧をうける若い下級銀行員として同志小林は、ごく初期の作品(「健」、「最後のもの」など)においてさえ、大衆の苦悩とその社会的根源をあばかんとする方向を示している。
「一九二八年三月十五日」は三・一五当時における敵階級の野蛮な白テロを曝露するとともに、革命的労働者の不屈の意気と、その家族のさまざまの姿を描き、当時のプロレタリア文学の画期的到達点を示すものとなった。そもそもの第一歩から小説を書くということは同志小林にあっては階級社会変革の翹望をひそめた仕事であった。「一九二八年三月十五日」が書かれるにおよんで、彼は人道主義者からマルクス主義者として立ち現れた。この時分、同志小林はすでに階級闘争の実践に参加し、組合に活動し、日本プロレタリア芸術連盟に活動していたのである。
以来、「蟹工船」「不在地主」「工場細胞」「オルグ」「沼尻村」その他最近の「党生活者」(『中央公論』編輯局によって「転換時代」と改題されたものである)「地区の人々」に至るまで精力的に発表された諸作品は、どれをとっても、それぞれの時期におけるプロレタリアートの課題を自身の課題として反映したものであり、何かの意味でプロレタリア文学の最高峰を築こうとするものであった。
同志小林は「蟹工船」において、日本資本主義の植民地的搾取の真相と、日本海軍がどのように人民収奪を援助する任務をもっているかということを、生産面においてくまなく描こ
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング