面である点から、特に注意を喚び起す。同志小林がこの点を記念碑的作品の全篇中にどう活かし得ているかということを究明することに、プロレタリア文学の次の発展への重大な歴史的モメントがかくされていると思うのである。
四
全然対蹠的な主題を扱った小説として同じ『中央公論』に同志細田民樹の「裏切者《プロヴォカートル》」がある。今日「プロヴォカートル」という言葉は逆宣伝的な意味にでも通俗化され、新語辞典に出て来る文字となった。プロレタリア作家がそのような階級的な而も卑俗化された好奇心を伴って興味をひく可能のある題材を扱う場合、何よりなすべきことは、「プロヴォカートル」というものの憎むべき本質を、飽までもプロレタリアートの立場に立って大衆の前に曝露することである。「プロヴォカートル」が、ただ裏切者であるというより更に憎むべき「挑発者」であり、今日では計画的に支配階級がプロレタリアートの組織へその破壊を目的として送り込むもの、即ち敵の組織の積極的一部であり、プロレタリアートはそれと常に闘い、一旦打撃はうけようとも終結において常にプロレタリアートが勝利するものであるという本質を明らかにして初めて書かれた意味がある。
同志細田は不幸にも「裏切者《プロヴォカートル》」において、そのような敵の組織に対する階級的態度は示さなかった。一人の小市民的英雄主義に毒された男が挑発者となる道ゆきを性格の分析から跡づけようとしている。しかしながら挑発者の階級的根源はそれによっては明らかにされず、個人の天性というものに全部罪をかぶせることによって、却って支配階級の計画的無恥、破廉恥的陰謀が覆いつつまれている。そのことによって、同志細田はプロレタリアートにとっては在るに甲斐なき数万字を徒らに費したという結果を招いているのである。
同志鈴木清が『改造』に「火を継ぐもの」を書き、同志堀田昇一が『中央公論』に「モルヒネ」を書いている。また同志須井一は、「労働者源三」の続篇として「城砦」を『改造』に発表している。これらの諸作品についてはいずれ別の場所で改めてとりあげられるであろうが、共通して一つの感想を抱かせた。それは、闘争の武器として磨かれてこそ、プロレタリア文学の作品は新たな価値に輝くのであって、ブルジョア的なものへの馴致は意味ないということである。「モルヒネ」にしろ「火を継ぐもの」にしろ作者たちの凜然たる階級的肉薄は感じられないのである。
嘉村礒多氏は、近頃文章だけについて云ってさえ粗末極まるものが多い稀薄なブルジョア作品の中にあって一種独特なねつさ[#「ねつさ」に傍点]、粘着力を示して「父の家」を書いている。没落する地方の中地主の家庭内のいきさつを「衆苦充満」とこまかく跡づけ描きつつ、最後に虚無的「凡庸に返り」「追憶やら哀愁やら、あれから二十年が過ぎたが茫として二十年一ト夢という気」になって、落日に向って額に手をかざし「眠りこむように目を細め」る主人公が描かれている。
嘉村氏は、転落する地方地主の生活に突入っていわばその骨を刻むように書いているつもりなのであるが、結局その努力も主題を発展的な歴史の光によって把握していないから、現象形態だけを追うに止り自身の粘り、社会観の基調がいかに富農的なものであるかまでを鋭く分析はし得ていないのである。
嘉村氏は、滅びるものをして滅ばしめよという風にその姿を克明に描くが、そこに我々は氏のデスペレートな、崩壊の面のみを認識してそこから新たな力の擡頭のあることを理解しない富農の暗い憤りが文章のセッサタクマというところへまで転化して現れているのである。[#地付き]〔一九三三年四月〕
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「国民新聞」
1933(昭和8)年4月6、8〜10日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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