動物愛護デー
宮本百合子
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(例)[#地付き]〔一九五〇年六月〕
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トルストイの「復活」という小説がある。小説として世界じゅうのひとによまれているばかりでなく、芝居に脚色されて、日本でもカチューシャとよばれる女主人公の運命は、ひとびとの心にきざまれている。「復活」のもっとも力づよく描き出されている場面の一つに、裁判の情景がある。帝政時代のロシアの裁判所の公判廷に、客を殺した一人の売笑婦として、カチューシャがひき出されて来る。貴族の陪審員として、偶然、その日の公判に臨席していたネフリュードフが、シベリア流刑を宣告されたそのカチューシャという売笑婦こそ、むかし若かった自分が無責任にもてあそんだ伯爵家の小間使いであったことを発見する。そして、道徳的責任にたえがたくめざまされたネフリュードフの物語がくりひろげられる。トルストイが、あのように力をこめて、無実の罪を主張して泣き叫ぶカチューシャにシベリア流刑を宣告する裁判官の、無情な非人間さを描破したのは、なぜだったろう。法律は、権力者によって自分に都合のいいように使われるが、真実の罪は、罪ありとしてさばかれるものにはない場合がある。だが法律は、真実に罪があるのでない者の運命にどれほど深刻に作用しつつあるかということについて、トルストイは、すべての人の注意をよびさまそうとしたのであった。
法律は公正であると信じこむように教育されているが、階級社会で実際に法律がどうつかわれるかという実例はサッコ・バンゼッティの事件ばかりではない。五月三十日の東京人民大会でとらえられた八名の若い人たちの罪にしても、いろいろ考えさせる。新聞のつたえるところによると青柳弁護士が、あのさわぎを誘発したのは丸の内警察署の誰某と名前をあげて弁論している。ひとを一定の罪にひっかけるために挑発し、行動したものは、それが権力の使用人であれば罪はないというものだろうか。罪の原因をうみ出しつつあるものに罪はないのだろうか。この社会の正義というものについて大きい疑問を呈出したのがユーゴーの「レ・ミゼラブル」であり、その主人公ジャン・バルジャンの飢えである。
六月四日の新聞は世界の人の目に何ともいえない皮肉さで腹の底までしみとおるような写真をのせた。六月三日は動物
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