れば、むしろ女学校を出て、上の学校に入るのでもなく、勤めもせず、これまでのように家にいる、と申告することにかえって何かの決心を求められるような心理になって来ると思える。何のために家庭にのこるのか、その理由が自分にはっきりわからなくては安心されない心になると思う。
 物事の推移は微妙で同時におそろしい力をもっている。それは、この一つの気持の変化についても見られるのではないだろうか。
 若い娘さんたちが、女学校を出てからあてのない朝夕を、緊張するだけの熱意ももてないお稽古ごとに過しつつ結婚を待っているというような暮しをやめて、学校からの続きのようにそれぞれのふさわしい職業についてゆくことは、よろこばしいことだといえる。広汎に若い娘さんの職業への進出が常識となってゆけば、自然これまで職業婦人のめぐり会って来た一つの悲劇、男のひとたちは結婚の対手として職業についている娘さんをのぞまないということも変ってこざるを得ない。逆にその娘さんはどうしてずっと家ばかりにいたのだろうか、という質問が生じるようになるかも知れない。そして、男が兵役につくのを当然とされているように女の職業経験がそれに対応するものとして見られるようになるかもしれない。社会的成員の条件の一つのように見られるのかもしれない。そして、それはそれでいいのだと思う。
 けれども、常識というものが社会の歴史の推移のままにそういう風に動いて変って行く時、その常識の内からよりましな人間としての生活を女も男も希望してさらに次の歴史に働きかけてゆく為には、いつの時代でも、常識の変化に身をゆだねる受け身な生きかたばかりでは不十分である。
 常識は合理的な半面と、当面の便宜のために不合理をいいくるめているような一面とを常に持っている。若い世代の誇りと責任とは、常にその新鮮な心と体とで、常識の錆びをふるいおとしてゆくところにあるのではないだろうか。若くて真率な、何故? という問いこそ、その人自身を成長させる原動力だし、社会をすすめてゆく潜勢力ではないだろうか。
 若い女性たちが、来年の春、おそらくは未曾有の数で職業についたとき、そして、半年か一年か経過したとき、その娘さんたちの心にははたしてどんな何故? が生れるであろうか、それをこそ知りたいものだと思う。それらの何故? が、現実でどう解かれて答えられてゆくかという実際にこそ、明日のその
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