のかね」といい、小林多喜二の「工場細胞」が当時の現実とは違っているという話がありました。わたしの理解するところでは、小林多喜二的身がまえというどちらかというと舌足らずな表現は、作家小林多喜二のあの精力的な、多面的な活動意慾と、解放運動の刻々の進展につれて、容赦なく自身を鞭撻しその課題に献身した、男らしいそしていかにも階級的芸術家らしい態度を、私たち民主主義作家は学んでよいという意味だと解釈しています。筆者もおおかたそのつもりで書いたのではないでしょうか。それだのに、何故この言葉は一種の感情を刺戟し、それに対する反撥の気分をよび起しているのでしょう。このことをよく考えてみたいと思います。
こんにちでもまだ小林多喜二という名には、赤く、黒く、大きい陰影がつきまとっています。それは治安維持法の影です。我々をおどかす治安維持法の影が小林多喜二という名から消えていません。彼の名は彼の蒙った虐殺を想い起させます。その瞬間に私たちの心に恐怖がわきます。小林多喜二的身がまえといわれると、何となしその恐ろしい赤い影の下に、自分をさらせといわれるように感じます。しかし率直にその感情は語られません。それを
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