のかね」といい、小林多喜二の「工場細胞」が当時の現実とは違っているという話がありました。わたしの理解するところでは、小林多喜二的身がまえというどちらかというと舌足らずな表現は、作家小林多喜二のあの精力的な、多面的な活動意慾と、解放運動の刻々の進展につれて、容赦なく自身を鞭撻しその課題に献身した、男らしいそしていかにも階級的芸術家らしい態度を、私たち民主主義作家は学んでよいという意味だと解釈しています。筆者もおおかたそのつもりで書いたのではないでしょうか。それだのに、何故この言葉は一種の感情を刺戟し、それに対する反撥の気分をよび起しているのでしょう。このことをよく考えてみたいと思います。
 こんにちでもまだ小林多喜二という名には、赤く、黒く、大きい陰影がつきまとっています。それは治安維持法の影です。我々をおどかす治安維持法の影が小林多喜二という名から消えていません。彼の名は彼の蒙った虐殺を想い起させます。その瞬間に私たちの心に恐怖がわきます。小林多喜二的身がまえといわれると、何となしその恐ろしい赤い影の下に、自分をさらせといわれるように感じます。しかし率直にその感情は語られません。それをよけて、文学理論上の議論のように話がもってゆかれます。
 このことがどんなに危険であり、民主主義文学の素直な理論的発展を害するやり方であるかということは、一九三三年にもとのプロレタリア作家同盟が犯した誤りを思いおこせばよく分ります。誰が治安維持法に苦しめられなかったでしょう。怖くない者は一人もなかった筈です。自然なこの暴力を嫌う感情と、当時のプロレタリア文学理論の再検討とは本質的には二つのものであったのに、当時の人々は、それをはっきり意図してはいなかったかもしれないけれども、プロレタリア文学理論の便宜的な批判というぬけ道によって、治安維持法の気味悪さをわが身の上にやわらげようとしました。従って社会主義的リアリズムの問題が文学における階級性の消滅を意味するものであるように語られ、ひきつづき人民戦線の提唱された時も、先刻中野さんが報告でふれたように、この階級的基盤をぼやかしたため、日本の反ファシズムの文学運動は、フランスのような現実の力をもてませんでした。そして日本の天皇制的ファシズムに根からやられてしまったのです。私たちは治安維持法のようなものは、もう二度とごめんです。二度とごめんなものを存在させないためには、その存在を欲しない人民の意志が文学を含む社会現象の全面に主張され、実現されなければなりません。民主主義文学が順調な発展を遂げてゆくこと、そのために私たちは骨をおしまず勇気をもって働くこと、それ以外に私たちの嫌いな権力的狂暴を封殺するものはありません。そのために必要な骨格は、民主主義文学についてのしっかりした過去と未来を見渡す能力のある理論と創作です。
 治安維持法的コンプレックスは退治してしまわなければだめです。実はそのコンプレックスで感情を刺戟されるのに、そのことにはふれず、何か外部からの強権を反撥しでもするようなすねかたをすることは、止めるべきだと思います。
 民主主義文学の最大の課題は、基盤となる階級の革命的成長とともに、ブルジョア文学の伝統である「私小説」から「私」を人民の文学の中へ解放することです。ブルジョア的な観念の中で主張される自我、個々なる個性が、現代の現実の中でその正当な発展的存在を守ろうとすれば、それはより広い人民的環境と行動の中に自身をおく以外に方法がないことは『近代文学』の人々がこの頃はっきり反ファシズムの線に乗り出してきたことをみても分ります。
 ブルジョア文学の中で、志賀直哉の文学を頂点としなければならなかった「私」は、民主主義の達成の一歩毎に単数の「私」から人民的複数の「私」に展開されます。小林多喜二の時代非合法であった共産党は、今日合法政党として存在し、工場細胞は公然です。非合法だった時代の党の気の毒な官僚主義、ヒロイズム、独善などがかりに小林多喜二の「工場細胞」に反映しているならば、小林多喜二的身がまえによって――積極的に歴史の課題に答えようとする民主的文学者の行動性で、その弱点は今日の「工場細胞」の現実描写を与えられてゆくべきだと思います。そこに民主主義文学の創作方法の新しい可能性があります。労働者の生活を内側から書くということの健全な価値がある。ソヴェトの作家の活動ぶりをみれば、民主主義の達成の程度につれて一人の作家が一生の間にどんな多様な社会的経験と作品活動を可能にされているかということがよく分ります。ブルジョア作家が狭い「私」的環境に止められて、僅かな感情冒険だの偏奇の誇張などにエネルギーをついやしている時、少くとも現在民主的作家は、政治的活動の分野を解放されているし、経営内の文化活動に直接ふれること
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